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小説 | テセウスの歯 #12 最終話

最終話

 日傘を差して歩く。日差しは穏やかになり、遮る必要性は最早感じない。それでも傘を差して空気を丸く切り取るのが好きだった。傘の内側は簡易なシェルターのようだと思う。パーソナルスペースを物理的に区切ることで得られる安心感があった。

 歯医者のドアが開くと漂ってくる独特の匂いに、反射的に唾液が迫り出してくる。消毒液のツンとした刺激臭にも慣れてきた。だがここに来るのも今日が最後だ。新しい歯が嵌まればもうここに用はない。関わりと言えば、時間差で来る支払いに怯えながら生きるだけ。それも過ぎればしばらく来ることはないだろう。そうであることを願う。

 勝手知ったる様子で案内される前に荷物を置き椅子に腰掛ける。後は口を開けてじっとしていればいい。たった数回通っただけの歯医者も、新しい会社に比べれば通い慣れたものだった。

「斉藤さん、こんにちは。型を嵌めたら今日が最後になります。まずは麻酔を塗りますので、口を開けてください」

 言われるがままに口を開く。何の抵抗もなしに、他人に綺麗に見られたいという意識を捨て去って。医療行為という言い訳を笠に着て、医者は医者であり人ではないと言い聞かせながら。

 新しい職場は創設されて十年と経っておらず、オフィスも綺麗で人間関係の風通しの良い職場だった。業務に関する会話がほとんどで、プライベートに踏み込んでこない。散々追い求めた、理想のホワイト企業だった。

 新しい会社の良いところは何と言っても社内の暗黙のルールがないところだろう。誰に気を付けないといけない。誰に嫌われたらいけない。そんなことに気を遣わなくていい。初出勤の日こそ緊張したものの、前職と業務内容が似通っていた分、仕事そのものに対する不安はなかった。環境が変わるだけで、同じ働きをしても以前より高い給料も、ボーナスすら手に入る。身を置く場所を選べたなら。

 麻酔が効いて歯科医師が戻ってくる。歯科衛生士を伴って。

「お口いててくださいね」

 今日は久々にいてくださいの人だ。私はその一言で「口」としての役を演じる役者になる。身を横たえ指を組み、ただ口を開閉するだけの機構になる。水を浴びせ風を吹き掛け、準備を整える。

 機械の音が響くと本能的な恐怖が湧き上がる。骨伝導で伝わる地響きのような振動が、耳よりも深い場所まで侵食してくる。あの機械は神経まで到達しないはず。口の中の柔らかい場所を抉ることはないはず。そう祈りながら恐怖を押し殺し、他者に身を委ねることの難しさを思う。

 機械は仮詰めを削りとっていく。役目を終えたそれは無数の塵と化していく。機械は徐々に奥へと進み、耳に一番近い位置で不快な音を立てる。

 人は神様ではないから過ちを犯す。他者の過ちが自分の身に降り掛からないとは限らない。神様の設計ミスがなければ、この恐怖を抱くこともなかったはずなのに。本当に神様は過ちを犯さないのか? 今こんなにも不完全なこの社会を生きているのに。

 口を開けて、閉じて、起き上がって、うがいして、横たわって。一連の決められた動作を繰り返す。やがて顕になった歯の上に新しい歯が嵌められる。ピンセットでそっと置かれた歯は、まるで元からそこにあったかのようにピタリと収まる。歯科医師は全ての歯に新しい歯を乗せパズルを完成させてから、また一つずつ外していく。外した箇所に接着剤を塗り一つずつ慎重に融合させていく。

 全ての歯をつぎ合わせた後、風を当てられる。次いで光を、そして水を。本当に路傍の石のようだった。

 舌の側面に苦味を感じる。接着剤の味だろうか。苦味を感じるのは舌のどの部分だっただろうかと思案しているうちに、歯は滑らかに磨かれていく。

「噛んでください……。ちょっと高いかな? 磨きますね」

 私が何も言わずとも施術は進んでいく。口全体のバランスを整え、あるべき姿へと向かっていく。そこに私の意思は介在しない。ただ歯科医師の望むままに。会社であれば会社の思うままに。ただじっと口を開け、終わりが来るのを待つ。

「斉藤さん、終わりました。一度うがいをしましょう」

 椅子と共に起き上がり、口を濯ぐ。色々なものが混ざりドロドロになった液体が、排水口に吸い込まれていく。

「舌で触ってみてください。ざらつく箇所はありますか?」

 言われるがままに舌を這わせる。新しい歯は元の歯に馴染み、継ぎ目も分からないほど滑らかに磨かれていた。

「大丈夫です」
「では写真を撮りますね。後で一番初めに撮った写真と比較しましょう」

 口を大きく開けて、レンズの大きなカメラが光る。瞼越しに光が差し込み、眩さに目が眩む。椅子が起き上がるのと同時に重力の負荷が掛かり、現実に引き戻される。

 いててくださいの歯科衛生士がカルテを持って現れる。歯科医師はカメラの画面を見せながら語りかける。

「こちらが今撮った写真です。奥の二本がセラミックで手前の歯がハイブリッドです。色も最初の写真を送って斉藤さんの歯に合わせてありますので、見た目の差はほとんどないと思います。最初の写真と比べると随分綺麗になりました」

 歯科衛生士が差し出すカルテとカメラを交互に見る。初めは虫歯に蝕まれ黒ずんでいた歯が、劣化により黄ばんでいた古い詰め物が全て新しく入れ替えられ、元の歯と見分けがつかなくなった。少なくとも素人目には。

「ありがとうございます」
「それでは治療は一旦終了になります。またクリーニングにいらしてくださいね。お疲れ様でした」

 歯科医師の笑顔から漏れる、白く光る歯に見送られ部屋を後にする。受付で残る半額を支払い、これで後腐れなく帰ることができる。扉が開くと雲間から日が差し、天使の梯子を作っていた。

 私は日傘を開きシェルターを作り歩き出す。鞄からスマートフォンを取り出し、初めて自分から母に電話を掛ける。

「もしもし? どうしたの?」
「お母さん、実は会社辞めたの」
「辞めたって、どうして? 戻ってくるの?」
「大丈夫、もう次が決まったから」

 一瞬の間が空いて、母からの返答が来る。

「そう……。今は一つの会社で勤め上げる時代じゃないのね。……頑張って。応援しているから」
「うん」

 何往復か会話を交わして、電話を切る。母は帰って来いとは言わなかった。代わりの場所に収まれとは。

 なにも母も初めから悪かった訳ではない。どれほど変わろうと根は昔の母のままなのだ。虫歯があろうと綺麗に見えれば、役割を果たせば一見円満に保たれる。だけどいつかは痛み、死に至るだろう。

 逃げ出す以外に方法はない。共倒れしないように生きていくには、それしか。せめて働きたかった母の代わりに、働いて自活する道を選ぶ。

 歩きながらSNSを開く。一番上に先輩の投稿が表示されていた。奥さんと二人で過ごす、新居の写真に一言添えられている。

「やっと家に帰って来れた。家族で過ごす時間を優先できるよう絶対転職する」

 私は先輩の投稿にいいねボタンを押し、手短に転職したことを投稿した。「知り合いかも?」に表示されている後輩のアカウントを開く。

「やっと新人入った! 今度こそ長続きして〜」

 その投稿を見て、求人サイトを開く。打ち慣れた社名を入力するが、検索欄には何も現れなかった。私は後輩のアカウントをブロックし、求人サイトそのものを退会した。

 前の職場の求人はもう取り下げられていた。私がいた場所は替わりの誰かで埋められたのだろう。私は私で新しい職場の、誰かがいた場所に収まった。舌先で新しい歯の滑らかな表面をなぞる。詰められた当初は馴染まなかった形も磨かれ型に嵌ると、やがて元の歯と見分けがつかなくなった。

-了-

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