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小説 | テセウスの歯 #7

第7話

 一週間振りにヒールを履いた。ヒールが地面を打つ音はこんなにも心躍る音だっただろうか。パンツスーツの裾がヒラヒラと揺れている。

 面接に漕ぎ着けた会社は寂れた駅を最寄りとしていた。歩道は舗装されているはずなのに、いたるところが盛り上がっている。歩くうち、ひび割れた箇所にヒールが引っ掛かり物理的に足を取られた。慌てて体勢を立て直す。舌が口内炎に当たりじくりと痛んだ。

 二度目の仮詰めは以前ほど気にならなくなった。代わりに口内炎が熱を帯びて、話す度に擦れて痛みを伴った。メールに返答した日には何事もなかったのに。日程を変更しなかったことを後悔している。口内炎を早く治すためにビタミン剤を飲んだが、擦れることを防ぐことはできない。帰りに絶対貼る薬を買う。そう決めた。

 二十分前には会社に着くよう時間を設定したはずなのに、たどり着いた頃には十分前になっていた。滴る汗を拭い、意を決してビルの扉を潜る。期待していたような冷気はなく、生温い風が頬を撫でた。ビルは全体的に照明が薄暗く、雑然とした印象だった。受付に座る中年の女性に声を掛ける。

「お世話になります。十五時から面接予定の斉藤と申します」

 なるべく痛みを顔に表さないように細心の注意を払いながら、なるべくハキハキと声を掛かる。途端に女性は睨め付けるように上から下までねっとりとした視線を向ける。まるで何かを審査するように。赤く塗られた口紅が表情の細やかな変化を強調した。

「斉藤さんね、こちらへどうぞ」

 エレベーターの前へ進む女性を早足で追う。促されて乗ったエレベーターは狭く、最大で四人か五人が限界だろうが、女性の体積が広く二人分の場所を占拠している。肥満の人特有の、脂肪の饐えた臭いがする。なるべく息をしないように視線を泳がせる。壁には至る所に注意書きが黄色く色褪せたセロテープで貼られており、ところどころ破れている。何年も更新されていないのだろう。軋んだ音を立てながらエレベーターは上を目指す。

 もう既に嫌な予感がしている。この後にいいことが待っているとは思えない。とんだハズレくじを引いた。どうしてビルの外観を見た段階で踵を返さなかったのだろう。早く帰りたい。目の前の女性のうなじを見つめる。

 限界まで上にまとめられた髪には白髪が混じっている。灰色のギンガムチェックのベストの上には首の肉が乗っていて、脇の部分にはあぶれた肉が乗っている。背中はじっとりと汗ばみ、照明も相まって黒く見える。ベストとスカートの間から肉に押し出された白いシャツが覗いていた。ベストで隠れると思っているのだろうか、スカートの一番上のホックが留まっておらず、白いシャツが逆三角形に見えている。

 エレベーターが目的の階に止まる。女性が降りた瞬間にエレベーターが揺れた。女性は突き当たりの部屋を勢いよく開けた。中には誰もいないようだ。

 部屋の隅には乱雑に物が積まれており、真ん中になけなしのスペースが作られていた。普段は使われていないようだ。女性は壁に掛かったリモコンを操作し、電源を付ける。カビ臭い匂いが室内に広がり、思わずむせ返りそうになる。

「はい、こちらの部屋で掛けてお待ちくださいね」

 女性はそう言うと、戸も閉めずにそのまま出て行った。埃っぽい部屋に一人取り残される。まるで時が止まったような部屋。斜めにぶら下がったブラインドから漏れる日光があらゆるものを劣化させ、部屋全体が色褪せていた。色味の消えた部屋の中で、埃だけが輝きながら舞っている。

 光り輝く塵を眺めながら、会社の情報と履歴書に書いた内容を反芻する。履歴書に書いていないと自分の学歴や資格を取った年月を忘れてしまう。この会社は前職よりどの条件がよかったのか。志望動機は何だったか。

 これまでの経験を活かして頑張ります。突き詰めればそれだけの話をどうやって飾ったものか。

 乱暴に壁を叩く音がして、扉の向こうへ視線を向ける。中年の男性が視線が上がるよりも早く部屋に足を踏み入れ、音を立てて向かいの椅子に座った。

「こんにちは。面接の人ね。えー……斉藤さん? よろしく」
「斉藤千鶴と申します。よろしくお願い致します」
 敬語ですらない様子に、事前に考えていた全ての段取りが開いた口から抜け出していく。

 事前に目を通していないのだろうか。目の前で履歴書を捲りながら私の名前を探り当てる。男性は履歴書と私自身を交互に眺めながら、品定めする素振りを隠そうともせずに、無言で頭から爪先までを眺める。先程の中年女性よりも長く、じっくりと。暑い部屋のはずなのに、身の毛がよだち冷や汗が流れる。私は今、何を審査されているのだろう。私は上手く笑えているのだろうか。顔が引き攣ってやしないだろうか。口内炎がじくじくと痛む。

「まぁいいんじゃない、採用で」
「え?」

 まだ一言も喋っていないのに予想だにしない言葉が飛び出て、思わず声が漏れる。まだ志望動機だって、職歴すら聞かれていないのに。

「前の会社で八年も働いてたら受付くらいできるでしょ」
「一般事務の応募で来たのですが」

 受付という単語を聞いて、反射的に問い掛ける。前職のように電話の取り継ぎ程度で直接顧客と関わらない、一般事務の仕事を探している。受付と書いてあったら応募すらしないはずだ。

「受付嬢だって事務でしょ。コピーにお茶汲み。電話と直接来る客の取次。書類の整理と掃除。まぁ雑用ね」

 お茶汲みという文化がまだ残っていることに愕然とする。私の想像する一般事務と、仕事内容が乖離している。この会社は一体いつから時間が止まっているのだろう。無心になって背表紙の色褪せたファイルを眺める。

「受付嬢ってんだから若くないと。君も見たでしょ受付のババア。早いとこ入れ替えたいんだよね」

 だからあの態度か。そりゃあ感じも悪くなるだろう。自分の職を脅かす、とって変わられるかもしれない人間に丁寧な対応をする訳がない。

 加えて面接をするような立場の人間が、入社前の他人にすらこの態度なのだ。入社した後はもっと横暴になるだろう。

 彼らに求職者は未来の顧客であるという意識はないのだろうか。面接は企業が一方的に求職者を審査する場ではない。企業が求職者を覗く時、求職者もまた企業を覗いているのだ。

「すみません、一般事務だと聞いていたので、今回は辞退させていただきたいと思います」
「ええ? せっかく時間を割いたのにそれはないよ。座って簡単な仕事をして給料もらえるなんて贅沢だと思うけど。どうせ結婚までの腰掛けでしょ?」
「貴重な時間を割いて頂いたのに申し訳ございません」

 時間を割いたのはこちらもだし、何より後から辞退する方が手間ではないか。そもそも結婚までの腰掛けなら、こんな潰れそうな会社を選ぼうはずもない。そんな言葉をぐっと堪える。

 このビルの受付に座る自分を想像する。それだけで身体中の毛が逆毛立ち、体温が下がっていく。あの品定めするような視線を、不特定多数に向けられるのだろう。それに耐えられるとは思えなかった。たとえば、厚い脂肪の鎧にでも身を包まなければ。

「えー困るよ、一ヶ月だけでもさ、何とかならない?」
「長期で働けるところを探していますので。大変申し訳ございません」
「ふーん、あっそう。じゃあいいよ、帰って」

 私は鞄を抱え足早に扉を目指し、廊下に出たところで振り返ってお辞儀をしようとした。だがその前に大きな音を立てて扉が閉まった。思わず飛び上がる。心臓が大きく脈打っている。締め出されたのだ。あまりの非常識さに呆気にとられる。こんなところにはもう一秒だっていたくない。

 私は正面のエレベーターのボタンを押した。背後の部屋からは何かを崩すような音が聞こえる。たとえばストレスに任せて手当たり次第、物に当たり散らすような。エレベーターの進みは遅く感じる。早く来て。部屋の中の人が出てこないうちに、早く。

 ようやく到着したエレベーターに慌てて駆け込む。「閉」を連打して、扉が閉まるのを見届けやっと一息つく。手すりを握り深呼吸する。足が震え、腰が引けている。エレベーターが数階分降りる時間は、息を整えるにはあまりに短すぎる。

 扉が開いた瞬間、足早に出口へと向かう。逆光の中、受付に先程の女性が座っているのが見えた。彼女に軽く会釈をし通り過ぎる。彼女は私の姿を目にすると、今日一番の笑顔を見せた。赤い口紅が宙に浮かび上がる。

 転がるように、陽の当たる場所へ躍り出た。凸凹のアスファルトに足を取られないように気を付けながら足早に駅を目指す。その間にも、頭の片隅に彼女の赤い口紅の印象が焼き付いて離れない。まるで不思議の国のチェシャ猫みたいに。青い空、白い雲、黒いアスファルト、どの色の上にも赤が浮き上がり、どこまでも追いかけてくる。

 長い一週間が終わり、ようやく仮詰めから解放される時が来た。

「斉藤さん、お変わりはないですか?」
「仮詰めは大丈夫なんですが、麻酔が切れる前に食事をしてしまって口内炎が……」
「分かりました、当たらないように気を付けますね。今日は仮詰めを外して、新しく届いた歯を嵌め込んでいきます。椅子を倒しますね」

 倒れゆく椅子に身を委ね、腰の位置を調整し言われるがまま口を開く。二種類の麻酔が私の口内に浸透し、口内炎の痛みからも解放される。麻酔が切れるのが今から億劫だ。

 ベリベリとパッキンのような仮詰めが剥がれる。剥がれた部分に水と風を掛けられ、想像以上に沁みた。手を強く握る。痛みを別の痛みで紛らわせようと爪を立てる。だが細やかな努力は無駄になった。突然、想定外の激痛に襲われ体が跳ねた。

 痛かったらすぐに言ってくださいとどの歯医者でも言われるが、どう意思表示すれば良いのだろうか? 子供の頃、痛いと言ったら痛いかーそうかーと言いながら施術を続けた医者のことを思い出す。痛みを訴えても続くのなら、耐え続けるしかない。いつかは終わるはずだ。そう思いながら手を組む癖がついた。

 痛みに耐えていることに気付いたのか、歯科医師は一旦手を止めて問い掛けてきた。

「痛いですか? 麻酔足します? 今がマックスくらいですが」
「……マックスなら、耐えます」
「分かりました。もう少し耐えてくださいね」

 歯科医師の言う通り、その後の痛みの波は穏やかだった。ピークは過ぎ去ったのだろう。体が弛緩する。

 やがて歯科医師はカチャカチャとパズルのピースを嵌めるように、私の歯と新しい歯を合わせていく。

「いいですね。ピッタリです。今からくっつけていきますね」

 接着剤取って、と言う小さな声が聞こえる。歯をくっつける接着剤は市販のものと何か違うのだろうか。もし市販のもので代用できるなら、病院嫌いな人が自分で何とかしようとしてしまって、余計に病院の人の手を煩わせるようになるだろう。世の中には伏せておくべき情報があるのだと思う。

 先日面接に行った会社を思い出す。赤い口紅の女。女の行動は異常だが、理由が思い当たらないでもない。おそらく面接官の男は本人を前にしても同じ言動を繰り返している。その上何の臆面もなく、決して悪口などではなく、それが世間一般の通念だと主張する。

 人は言われたように姿を変える。彼女は通常のスピードより早く老い、心を守るために鎧を身に纏った。それは「女」と言うカテゴリからの脱却であった。だがあの時が止まったビルの中では、完全なる脱却は望めない。周囲の意識が変わらなければ、呪いの言葉が彼女を支配し続けるだろう。

 もしも呪いの言葉の代わりに彼女を肯定する言葉が掛けられていたなら、今と違った姿をしていたはずだ。人前に立つために化粧をし続ける彼女ならきっと。痛めつけられなければ、削られずに根を下ろし続けることだろう。

「椅子を上げます。長時間お疲れ様でした」

 考え事をしている間に処置が終わった。口の中を濯ぐと、少し苦味のある接着剤の味が口に広がった。

「鏡を確認ください。奥の歯がセラミック、手間の歯がハイブリットです。ほとんど見分けがつきませんね。工場には綺麗に作ってくださいとお願いしておきました」
「ありがとうございます」

 ウインクするような素振りで彼はそう言った。自分の仕事でないのに恩着せがましい。笑いどころのつもりなんだろうけど。

 新しく嵌った歯は素人目にはほとんどどころか、全く見分けがつかない。そこには違いなどないような気がした。いつか劣化する歯を、人はどう見分ければいいのか。噛み合わせは元の歯と変わらないのに。

 劣化は経年しないと確認できない。前職に就いていた八年の間、私は劣化せずに済んだのか。私自身の立ち位置が分からなくなった。

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