見出し画像

教育現場から消えゆく節分文化

今日は節分。

鬼が来ることで有名な今日という日であるが、今どきのインターナショナルスクールでは少し事情が異なるらしい。


結論から言うと、これまでは実際に鬼(とはいっても被り物をした職員)が登場して子どもたちを怖がらせていたのだが、今年からそれがなくなった。


理由はシンプルで、子どもたちが怖がってトラウマになる懸念があるからである。

加えて、鬼に豆を投げるという行為が、人にものを投げることを助長し、さらには食べ物を投げることがあり得ない行為であるということで、鬼の必要性がさらになくなった。


そんなわけで、壁に貼られた鬼に向かってみんなでボールを投げた、2023年の節分であった。

***

私たちの節分の文化は、おそらくどこかに消え去ろうとしている。

今回のような新しい形態で節分イベントを行うということは、もはや文化としてのイベントではなく、ただの「文化の皮を被った」イベントである。節分イベントの中身は、不思議な論理武装のおかげで何もなくなってしまった。鬼(すなわち邪気や疫鬼のような悪いもの)を豆などで払って、福を招き入れるという文化のウワベだけを教えるイベントに成り下がった。

だが、それは実は意味のないことで、子どもたちにとっても学びとしてのおもしろさが半減する。

鬼がくれば確かに子どもたちはものすごく怖がるだろう。トラウマになる子もいるかもしれない。だが、鬼とはそういう存在である。恐ろしく、いつなんどき自分の元に来るかもしれない存在だ。そんな架空の存在がいるからこそ、子どもたちの背筋がしゃんとする。日常生活において自分をよく律するための一つの要素になりうるのが、鬼という存在である。

だいたい、いくら鬼がトラウマになったからといって、成長するにつれて鬼の存在が架空であると知ると、だんだん笑い話になるものだ。事実、私も今でも保育園時代の節分イベントをいまだに覚えている。実際に鬼が来て、トイレに隠れたものだ。トイレまでも鬼は追いかけてきて、なんとも恐ろしい瞬間だったものだ。だが、それがトラウマかといえば、そうではない。今ではもう、ただの思い出である。

節分の鬼とは、そんなものだ。

加えて、「豆を投げる」という行為だが、これは私たち大人の教え方次第であろう。

確かに、人にものを投げたり、食べ物を投げたりすることはよくない。
だが、少なくとも節分に関していえば、鬼に向かって食べ物を投げる理由がある。伝統文化として「豆を投げて邪気を払う」わけで、何も鬼をいじめたくて投げているわけではない。相手が鬼だから豆を投げられるわけで、それを日常生活と混同することはあってはならない。それをちゃんと指導すれば、節分の日に鬼に対して豆を投げてもいいのではないだろうか。

***

今日、保護者の方に「今日の節分に鬼は来たのですか?」と多く聞かれた。それに対して「今回は来なかったんですよ〜」と答えると、全員が驚いた表情を見せていた。今後も一切鬼が来ないことを知ると、より驚くかもしれない。私もそんな会話をしながら、残念な気持ちでいっぱいであった。

伝統文化より優先したのは何か。
その優先したものは、はたして子どもたちのためになっているのか。

これらは今一度考えるべきことだし、今後もテーマごとに深掘りしていくべきことであろう。

今回の節分のケースでいうと、園は伝統文化よりも子どもの倫理観の育成に重きを置いた形かもしれない。だが、排除することがはたして教育になっているのだろうか。私は、身をもって体験して、たくさん失敗をして、はじめて子どもたちが学ぶことができると思う。だからこそ、今回の形の節分イベントはナンセンスだと思わざるを得ない。

時代は変わりゆく。

本当に変えるべきところはどんどん変えるべきだろうが、変えずに維持するべきところだってあるはずだ。教育という分野では尚のことで、流行や周囲に流されてばかりでは、展開していくべき教育がブレてしまう。


個人でも組織でもそうだが、芯を通すべきところはまっすぐとその信念を貫きたいものだ。


伝統文化も、その類の一つである。

2023.02.03
ShareKnowledge(けい)

この記事が参加している募集

この経験に学べ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?