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#1 “西洋科学”と呼ばれる宗教がある。“宗教”と云われる東洋の科学がある。

この原稿のタイトルは、新たな出発点として標しています。

10年間、私が“学問”の世界を彷徨って到達した場所、ないし漂着したと言える場所です。

科学。今日においては“現代西洋科学”とおよそ同義語であるそれは、いつしか人々の盲信を一身に受ける宗教と化しました。他方で、人々の心を解放する科学的実践は、“東洋の宗教”の中に見出すことができます。

したがって、私が行っていること、そして行おうと試みていることは、そんな“東洋の科学”を“西洋科学的”に探究することであり、またその逆も然りです。この試みを成功させる鍵は、人間の二つの能力にあると考えます。すなわち、“理性”と“感性”を呼び起こし、この東西の科学的な営みに挑む必要があるのです。

“理性”は、しばしば「rationality(合理性)」と英訳され、脳を拠り所としています。一方で、“感性”の英語訳は常に頭を悩ます難問であり、私自身は「感覚」、「感受性」、「感情」、「直感」など、文脈によって最適な翻訳を探し、また複数の説明を試みることで、英語話者に感性の感覚を立体的に伝えることに努めています。いずれにしましても、感性とは、身体から来るものです。

別の表現方法を採るならば、“理性”は「頭(脳)で考える能力」であり、“感性”は「身体で考える能力」と言えるでしょう。私がこれらについて英語で書くときも、語の説明と共になるべく日本語の「Risei(理性)」と「Kansei(感性)」を使い続けることで、微妙なニュアンスが損なわれないようにしています。ただし、これらの概念を英単語に置き換えることを諦めたわけではなく、常によりよい翻訳を探し続けている道半ばです。

理性と感性。私たちが持つこれらの能力について識るほどに、現代西洋科学それ単体では不完全であるのではと疑念が生まれます。

現代西洋科学は主に理性によって形成されています。対照的に、東洋の科学は伝統的に感性によって形成され、支えられています。理性と感性、西洋と東洋の知恵は同じくして尊重されるべきです。しかし、今日の世界においては、東洋の知識や実践に対して西洋科学が人々の心の中に圧倒的な独占状態にあり、前者は宗教と見なされる一方、後者のみが科学として扱われます。

この意味するところは、理性が感性に対して支配的であるということです。言い換えれば、私たちはこの現実の一部として生きているにもかかわらず、物理的な経験よりも形而上的な思考を優先するよう、いまの世界が私たちに強制しているということです。

科学を科学たらしめるものは再現性です。つまり、同じ原因を突っ込んだ場合、同じ結果(もしくは誤差の範囲内で類似の結果)が得られる。これが科学の大前提です。この基準に従えば、たとえばヨガで特定の呼吸法を行ったとき、人の体にある反応が感覚されるとしましょう。これは、ヨガの実践体系に基づけば、同じ手順を踏めば、誰の体にも同じ反応が引き起こされることが期待されています。

しかし、ここで西洋科学を西洋科学たらしめるもうひとつの要素が立ち塞がります。それが、客観性です。特定の原因(=ヨガの呼吸)によって生じた結果(=人体の変化の感覚)は、そのプロセスの影響を受ける個人が、自身の経験を通じてしか認識できません。つまり、判断が主観的と見なされるのです。この主観的経験を包含する東洋の実践体系に対し、客観的な観察によって得られた因果関係以外を認めない西洋科学の本質が、ここにおいて衝突します。これが、東洋科学が西洋の視点から科学として受け入れられない致命的な理由です。

とは言っても、仮に西洋科学が東洋の実践を科学として受け入れることができないとしても、「仏教」、「道教」、「神道」などのいわゆる東洋の宗教は、キリスト教のような西洋の宗教と同等に「宗教」として翻訳されるべきではありません。つまり、「religion=宗教」ではないのです。

上記に挙げた東洋の宗教を、私は東洋の科学だと認識しています。そして、これらはむしろ古代ギリシャの哲学に類似しています。生きた世界を経験しながら思索したギリシャの哲学者たちのように、東洋の実践や儀礼は、むしろ私たち人間を身体的に、精神的に、霊的に、心的に、この世界の一部として良好な状態に調和を保つことを志向しています。

つまり、西洋の宗教の神は形而上的に信じられるのに対し、東洋の宗教で信じられているのは、人々がこの物理的な世界で感じる霊的な存在です。これが、曰く神や精霊、精神と呼ばれるものではないかと思うのです。もっと言うと、神という存在を脳内に作り上げて盲信するか、自身の身体を媒介としてこの世界の大きな流れを感覚して信ずるか、この違いです。

信仰に盲目が随伴する場合、それはカルトです。この構造は、西洋科学に対する現代人の態度に現れていないでしょうか。少なくとも、いま私が住んでいる日本の社会では、それが起こっているように見受けられるのです。

「科学」という名のカルトが存在します。科学的データがどのように生み出されるのかを知らないで、なぜその結果だけを信じることができるのでしょうか。私のシンプルな疑問はこの点にあります。

あなたが相対している現象を考察、分析、判断して意思決定を下す際に、数千キロも離れたヒトも風土も文化も異なる国や地域において得られたデータが、いま目の前で起こっている事実よりも優先されるのはなぜですか?

体の不調が気の流れやオーラや霊気が原因だと言われると、そういった目に見えないものの存在を怪しむわりに、身体の不調を引き起こすとされているウィルスやバクテリアを実際に視認した人はどれほどいるのでしょうか。どちらも肉眼で捉えるのは、難しくないですか。

客観性と合理性に過度に依拠している現代西洋科学を、まるで全能の神のように盲信しているのは、一体誰でしょうか。

とは言え、反科学的な態度から来る無批判な東洋礼賛もまた、同じく狂信的である点は留意しておかなければなりません。

これまで、東洋と西洋の科学と宗教の特徴を比較的に論じて参りました。両者の間には、違いがあります。ただそれだけです。現代の西洋科学と東洋の伝統的な科学、この両方が私たちにとって必要です。これらの優劣をめぐる議論ほど、馬鹿げたことはありません。

私は、私自身と私の周りの人たちが笑って暮らせるよう、東西双方の叡知とそれらの関係性を見直し、どちらも統合していく生き方を目指したいと思います。

西洋科学と東洋科学の統合は、理性と感性が調和的に交わるときにのみ実現されると思います。

日本に生まれ、オックスフォードとケンブリッジに学び、そこで探究し、私なりに理性の限界点を見ました。異国の学問の世界で彷徨の果て、たどり着いたのが感性でした。この感性の探究こそが、停滞する今の世界を拓く可能性を大いに秘めていると、私は思います。


そんなこんなで、これが学術の世界を飛び出して最初に書いた(英語で)、なんてことない私的なノートです。 2022.4.21

初めて日本語にしました。

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