yuuki
KJ法や川喜田二郎教授の学問・学術、梅棹忠夫教授の知的生産術に関する研究ノートです。
デザインに関する研究ノートです。社会文化とデザイン、デザインマネジメント、デザイン思考あたり。
スピっぽいこと。感じるっぽいこと。そんな感じの雑記。
クリスタルシャーマニズムに関すること。Crystal Medicine, Crystal Healing, Crystal Awakeningなど。Rachelle Charmanの系譜だよ。
例えば、ケンブリッジ時代を思い出して、ラボでプリンターとか文具とかファシリティ使い放題。これを当たり前にやっちゃってた。今、ニート生活を経て、その状況がすごいありがたいなっていうのが思えて。何が言いたいかというと、そういう本当に「感謝、ありがとう」っていう、巷でよく言われている成功者の法則。これも一つの成功の方法。 要は、振り切りが大事。 逆に、「自分はそういうのを与えられて当然だ」と思う人間。これも振り切っていれば成功できる・いける。僕はそっちのタイプではなかった、中
「偶然ではない、それは必然。」 この言い回しって、スピの人とかマクロビの人とかが使いがちで、僕もあんまり好きじゃなかった。 けれど、新しい見方が湧いて、しごく自分で納得した。 何かというと、一般の人はまだ感覚できてない層の観察を含む大局で見た場合(思考レベル、全身によるメタ視覚レベルとスピリチュアル(霊性)レベルで見た場合)、「当たり前にそうなるよね」というデザインが世界になされている。 つまり、それだけ作戦というか設計というか、「その結果をもたらす以外ないよね。」と
例えば、アマゾンの奥地でカエルを生で食べる民族の映像も見たことがあるが、僕にはできない。やりたいとも思わない。だからと言って、そこには僕ができないということをできる生命の強さがある。「野蛮」というのは、違う言い方をすれば「生命の強さ・美しさ」に他ならない。文明的な生活っていうのは、一方で「高度、進んだ、進歩した」というふうに見られがちだが、同時に「生物や生命としての強さや美しさ」を失っていく人間の生物性の退化でもある。 新幹線の中で、白人の女性が和式トイレを見て、使うのを断
見返りを求める取引は、お金でしかしない。 見返りを求めない行為には、自然と愛を返してもらえる。
そもそも論理っていうのが、ジンテーゼを導くことを前提として用いられるので、論理を使った瞬間に対立構造を取るっていうのが含まれちゃったんだよね、きっと。 気が合うとか馬が合うとかバイブスが合うとか、そういう何かがあるんだったら、きっと論理って要らないんだよね。
わかった。 マクロビアン、通常の人と僕は、 全く逆ベクトルからマクロビに入ったんだ。 だから、色々違う。 要は、大体マクロビ行く人は極陰性で落ちて、悩んで、 その救いの手としてマクロビに辿り着いた。 僕の場合、極陽性になりすぎて、マクロビに入った。
僕といると、オートで運気が上がる。 運命線が変わる。次元が上がる。 ただし、僕がその人のことを本気で好きにならなければならない。
デスクワーク時ほど食べたくなるのは、 身体が動きたがっているからじゃないか。 生物は、動きたいのである。 だから、臓器でさえよい。 口や食道、胃袋など、体内から動かそうとしているのでは。
妄信するな。しかし、不信を持つな。
2022.11.16 呪具としての箒 昔の日本の家はいろんな部屋に箒が置いてあった。理由が分かる気がする。すぐに汚れを取りたかった、払いたかった、穢れを落としたかった。ここに、物理的な掃除道具以上に、呪具としての箒の意義がある。(Cf. 『まよけの民俗誌(斎藤たま)』、『明治人の作法(横山 験也)』) 2022.11.22 塵を払い、邪気を祓う昔の家:不便益論的見直し 家の中に髪の毛やホコリなどのゴミが溜まっていくと、悪い気も溜まっていく。これを一掃するのが掃除であっ
Beware of an old man in a profession where men usually die young.
没入は良い。 執着は駄目。 没入は体でするもの。 執着は頭でするもの。 没入は、我が無くなっている状態。 ただ、そこに入っている。 執着は、我に支配されている状態。 そこに頭が縛られる。だから体が強張る。
電車内での知的生産作業が好きで、かつ捗るのは、五感への適度な刺激が用意されていて頭に没入しすぎないからかもしれない。静かすぎる図書館よりもカフェ、室内よりもテラスがいいのは、同じ理由かな。行先に到着することは目的じゃないんだけど、車内で1,2時間作業して元の駅で降りられるような、ワーキングスペースとしての電車サービスが欲しい。
僕は目の前のことにしか興味がない。 だから、事例とか理論とか他のモデルとか見る必要がない。 でも、人に説明する時には、現代人はそれらを求める。 客観的具体が見えないと不安、自分で考えることをしない。 客観的具体とは、他者によって作られた概念に過ぎないのに。
「共感」を連呼するが、彼ら・彼女らの“共感強迫観念”に共感できない私に、果たして彼ら・彼女らは共感してくれるのだろうか?