見出し画像

2024.4.1 プリミティブの美しさ

例えば、アマゾンの奥地でカエルを生で食べる民族の映像も見たことがあるが、僕にはできない。やりたいとも思わない。だからと言って、そこには僕ができないということをできる生命の強さがある。「野蛮」というのは、違う言い方をすれば「生命の強さ・美しさ」に他ならない。文明的な生活っていうのは、一方で「高度、進んだ、進歩した」というふうに見られがちだが、同時に「生物や生命としての強さや美しさ」を失っていく人間の生物性の退化でもある。

新幹線の中で、白人の女性が和式トイレを見て、使うのを断念したように見えた。使い方がわからないのはあると思う。他方で、僕は日本の洋式トイレは世界一心地が良いと思っている。僕自身は和式トイレも使えるが、暖かい便座で温水シャワーが付いている洋式トイレは、やはりとてもよい。しかし必要とあらば、そのあたりの茂みでも用は足せる。

カエルの生食にしろ、トイレのスタイルにしろ、だから別にどっちでもよくて。どっちも人間であって。ただ、高度化した文明の強さっていうのは、その洋式トイレを自分たちで作れることにあると思う。

カエルを生で食べられるとか、狩猟ができるとか、トイレもその辺で用を足して、そういう生活をしても体調を崩さないという生物の強さ。これは自分の身ひとつで一仕事を完結させている。つまりは創造的であって、生産的な活動である。この人間の営みに対して、ただトイレを使うとか、ただ調理された肉を食うっていうのは消費活動であって、綺麗なトイレを自分で用意できたり、美味しい料理を自分で調理できたりっていう生産力こそが、本質的な創造力であって、強さである。

ここにおいて、一見プリミティブ(野蛮)とされる暮らしも、高度文明という暮らしも、イコールである。つまり、いち個人で見たときのアマゾンの暮らしと、社会全体で見たときの高度文明の暮らしというのは、人間的に同じなのである。その共通項っていうのが、「自分でひとつのことを成している」。これはつまり創造である。社会文明においては、ただの消費者になっているヒトが大多数なので、その意味においては、我々はいち個人として野蛮民族よりも劣っているんじゃないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?