見出し画像

精神的な繋がりはないと思っていた父の死後、自分の寂しさが父とそっくりだと気づいた話

「それはとても寂しかったんじゃないですか?」

ワーカホリックからの過労とパワハラが重なり、心身ともに調子を崩し、療養の一環でカウンセリングを受けていた時期があった。自分の対人関係での癖を幼少期の家庭環境について話していたら、カウンセラーから「それはとても寂しかったんじゃないですか?」と言われた。パワハラへの怒りや悲しみの感情が整理し切れていないタイミングだったので、このカウンセラーはこんなところにコメントするのか…と鳩が豆鉄砲を食ったような気持ちになったのだった。
どう返答したかはよく覚えていない。「寂しいと言えるのかも知れませんが、特にそう感じたことはありません」と答えた。と、思う。

幼少期の家庭環境

私が育ったのは、両親と兄と私の4人家族だった。両親共働き。兄とは8歳差。
父は中学校の数学の教員だった。部活指導や生徒指導に熱心らしく、朝早く出かけて夜遅く帰ってくるので、家ではほぼ見かけない。幼児期のアルバムには、クリスマスとかのイベントで一緒に写っている写真はあったけど、私自身には父と一緒に楽しく過ごした記憶がない。私が父について知っているのは、オレンジジュースが大好きでいつも家の冷蔵庫にストックしていること、駄菓子やクレーンゲームの景品など小金を使いがちで母が不満そうにしていること、それくらい。父の同僚が私の担任になったり、同級生が他校の部活関係で父を知っていたりして、人伝に父の話を聞かされることはあったけど、自分が関わっている父と同一人物であるという実感が持てずにいた。真面目で熱血、らしい。
母はその時々でいろいろしていた。小学校の教員だったり、専門学校に通ったり、医療系の仕事を始めたり、大学に通ったり、福祉系の仕事をし始めたり、大学院で錬金術の研究をし始めたり。私が学校に行って預け先から帰宅するまでの間にそれらを終わらせていたらしく、私が家に居るときは基本的に母も家に居た。娘である私と関われる時間に限りがあったからなのか、日中のあれこれのストレスなのかは知らないけれど、家では私に対してあれこれ口出しをした。箸の持ち方、友達への電話のかけ方、習い事の宿題の進捗状況、部屋の片付け、目についたもの片っ端からダメ出しをされた。良い子ちゃんでも褒められることはなく、悪い子ちゃんだと数時間怒鳴り散らかされたり玄関先から入らせてもらえなかったりした。
兄は、兄自身が高校を卒業するまでは割と仲良くしていた。居心地の良い家庭だとは思えなかったけれど、そんな日常からたまに非日常としてイベントやLIVEに連れて行ってくれたのが兄だった。でも私が小学校中学年の時、自身の進学を機に家を出た。数年後、帰ってきたりまた出て行ったりを繰り返していたけれど、そのうち”仕事”と称して家の中で見かけることはなくなった。気づけば顔を合わせる度に自分の老化アピールと私への教訓めいた口出しが増えていき、なんとなく疎遠になった。
幼少期の私は、平日はほぼ留守番か預け先の家でひとり。学校で何か起こすと両親の面子を潰してしまうかもしれない怖さもあり、ひたすら優等生として過ごしていた。家では、母が帰ってきても過干渉で否定ばかりしてくるので気が抜けない。父は家に居ない。兄は気まぐれ。家の中で頼りたいと思える人は居なかったけれど、知識的に、ポジション的に、お父さんという役割の人が担ってくれるといいよなあ、とうっすら思っていた。でも父親は家に居ない。頼れる人が家に居ないなりに自分でどうにかしたいと思った結果、学校でも家でも良い子ちゃんとして過ごしていた。本当の私は良い子ちゃんでもないし頼れるものなら頼りたい気持ち外に出さないようにしながら、精一杯強がって生きてきた。

幼少期の家庭環境からの逃走

実家は安心できる場ではなかったけれど、こんな場所にずっと居るのは嫌だと強がり続けた勢いから生まれる行動力で得られたものはたくさんある。両親の納得する理由(兄よりも良いところへの進学)で実家から出ることができたし、両親の納得する理由(両親よりも高い学歴を得るための進学)で実家への帰省をやめることができたし、両親の納得する理由(両親よりも高い学歴の家庭で育った人との結婚)で実家への連絡すらも年賀状だけに留めることができた。
ようやく私も自分の家庭を持つことができた。安心できる場にしたかったし、もう良い子ちゃんで居る必要も強がる必要もなくなった、はずだった。けれど、相変わらず私は良い自分で居ようとする癖が抜けず、良い妻になろうとしたし、良い職業人になろうとしたし、良い母になろうとした。産後、24時間の陣痛に耐えた後のボロボロの体でも変わらず良い自分で居ようとした結果、産後うつになった。生まれた家族で得られなかったものを、全部全部手に入れたいと思って頑張りすぎていたし、自分にはそれができるはずだと思い込んでいた。
産後うつになって初めて、これまでずっと何者かになろうとし続けてきた自分に気がついたのだった。看護師からも「自分の体のこともあるのに全部一度に手に入れるのは無理よ」と諭され、何の役割もなく何を目指すでもなく、ただ私として生きるだけの日常を送ることになったのだった。療養しながら自分の人生を振り返り、どんなに欲してもそのときに手に入るわけではなく、欲することで自身を壊すのは本末転倒だったのだなと後悔し続けた時期でもあった。

産後うつの私と余命宣告された父

産後うつの治療を始め、ようやく日常を取り戻した頃のこと。父から電話が入った。抗がん剤治療を始めるけれど、効果があればあと1年、なければ3ヶ月余命宣告をされた、みたいな話をしていた気がするけれど、よく覚えていない。電話口で、「すまん…本当にすまん…」と何度も言っていた気がするし、泣いていたような気もする。本当によく覚えていない。けれど、産後うつの治療でなるべくストレスを避けて早寝早起き三食欠かさず摂れれば十分という私の日常が、ストレスからの動悸でかき乱されてしまったなと思ったことはとても良く覚えている。
父が何を謝りたいかはよくわからなかった。いわゆる一家団欒がほとんどできないほど仕事で家を空けていたことなのか、子育て全般を母に任せきりにしたことなのか、母の入院中に不倫をしていたことなのか、不倫関係の家族会議に私を参加させなかったことなのか、私の婚約破棄で母が一人暮らし先に押しかけて居座ったときに連れて帰らなかったことなのか、私の結婚前の両家顔合わせを私不在のタイミングで結構したことなのか。私の中に、父から謝って欲しいことはたくさんあったけれど、具体的に何かを語られるわけでは無く、ただ泣きながら謝られた。
その日のことは日記に綴っていて、それをもとにnoteの別記事にまとめている。産後うつでありながらもかつての自分がそうしたように強がって、父という存在から逃げ切ろうとしていたのだと今では思う。

今更謝られても困る。
謝っても実家に居た頃の私の苦しさは変わらないから。
娘として頼れる父を求めていた頃に家庭を不在にしていた人。
自分の死を目の前にしなければ私に謝れない人。
なのに、具体的な話をして向き合うことができない人。
娘である私を直接知ることから逃げてきた人。
この期に及んで私の話を聞こうとする意思がない人。
今更そんな人を父として受け入れたくなかったし、最期だからと許されて死に支度を進められるのは嫌だった。

母や兄から何度か連絡はあったけれど、見舞いには一切行かなかった。親不孝だと一方的に罵られたりもしたけれど、自分が産後うつであることも言わず、なにも言い返さなかった。見舞いに行った方が良いことは理解しているけれど、行きたいと思えないし、行ける状態でもないし、そのことを正直に話す気にもなれなかった。見舞いに行く場合、1歳にもならない赤子をかかえて長距離移動することになるし、そのあたりを勝手に理解してくれないかなと思っていた気がする。抗不安薬を飲んでまで行く意義も見いだせるほどの精神的な繋がりは、父にも、母にも、兄にも、持てていなかった。
しばらくそうやってやり過ごしていると、私が見舞いに来ないと理解したらしく罵る連絡が収まっていった。父からの連絡が入った日も、母や兄から連絡が入った日も、決まってひどい動悸がやまず、父が死ぬのと私が死ぬの、どっちが早いのだろうなと思ったりもした。産後うつの治療としては飲まなくなっていた抗不安薬を飲みながら、当時かかっていた精神科医に話を聞いてもらいながら、自分の心身の健康維持を最優先に、どうにかやり過ごしていた。
良心は確かに痛むけれど、良い子ちゃんを演じるほどの余裕もなく、かといって今までの思いをぶつけるほどの気力も残っていなかった。

父の葬儀からの逃走…はさすがにできなかった

余命宣告の連絡から3ヶ月くらいたった頃だったと思う。母から珍しくメールが届いた。「今日明日くらいになるだろうとムンテラ。話したくないなら話さなくていいから、本人と電話で繋いで欲しい。私はずっとホスピスにいるので。」とのこと。
本当に最期だしさすがに親不孝すぎると思ったので、抗不安薬を飲んで効いてきたタイミングで電話を繋いだ。
すぐに父に変わり、父の声が聞こえた。何かを懸命に喋っていた。すでにモルヒネを相当量打たれていたようで、何を言っているかはわからなかった。
伝えたいことはあるのだろう。でも残念ながら、もう伝わらない。謝罪なのか罵詈雑言なのかすらわからない。これがホスピスで最期を迎える末期がん患者か…と思いつつ、この段階にならないと言えないことがあるのだな、人生って皮肉だな、なんて妙に冷静に考えていた。私は喋らなくていいと言われたので何も喋らなかった。父の声に反応するかのように息子が喃語を返していた。
父の発声がモルヒネの効き過ぎで覚束なくなったタイミングで、母が「聞こえたなら良かった」と言った。何も喋らなくて良いと言われていたが、「じゃあ」だけ言って通話を終えた。
父が私に語りたい言葉があるように、私だって語りたい言葉があったし、できれば、会話をしたかった。でもいつも会話にはならなかった。そして父も母も、私に会話を求めなかった。最期までそうなんだな…自分の言いたいことだけとりあえず言えればいいのか…ああ、これが私の父と母か…と思いながら、抗不安薬を飲んでいる時期でよかったな、とも思った。産後うつでなければ親不孝だと罵られていただろうし、抗不安薬がなければ通話すらしなかっただろう。
それから数日後、母から家族葬の詳細が送られてきた。
家族葬には顔を出した。行きたくなかったけれど、ドクターストップはかからなかった。「どちらが良いとは言いませんが、自分で決めるのが良いと思います」と言われたので、通夜・葬儀・初七日・四十九日のぶんの抗不安薬をとりあえず処方してもらった。
参列は、母と兄、父方の叔父、母方伯母、そして私。あんなに仕事熱心だったらしい父の葬儀なのに、家族との時間を削って仕事をしていたのに、仕事関係の人を呼ばないことに違和感を覚えた。いや、最後くらいは家族ゆっくり、という意味なのか。そこに自分はいなくていいのか。父の考えていることはよくわからない。
というか、葬儀のことを考えるだけで動悸が止まらない。抗不安薬を飲んでいるのに。逃げ出したい。参列したことにして数日観光してくるか…と考えていたら夫にバレた。夫には、「嫌なのはわかるし、ここで逃げたら後々絶対もっとめんどくさくなる。逃げ出すくらいなら一緒に行くし、喋らなくていいから顔だけ出そう」と諭された。家族葬に向かう前、義実家に顔を出したら、私が憔悴しきったように見えたらしく励まされた。父を亡くすということは本来は悲しみで憔悴すべきことなのだな、とぼんやりと思った。子が1歳に満たないことを理由にそそくさと帰ることにしよう、と自分に言い訳をした。
棺の中の父の顔を見て、母も兄も叔母も伯父も泣いていた。私が思っていたよりも棺桶の父はずっと小さかった。こんな顔だったかな?と思った。連れて行った子どもが、いつもはあまり泣かないのに泣いてぐずっていたので、葬儀も途中で出入りしてしまったけれど、それくらいの参加でちょうど良いなと思った。お坊さんの話も伯父の話もあんまり覚えていないけれど、父も両親と折り合いが悪いようで、伯父と母とで墓の場所を決めかねていることは理解した。そんなこんなで、抗不安薬のおかげで葬儀の間は自分の感情がピクリとも動かなかった。
帰宅する車の中で涙があふれてきた。何故なのかはわからなかったけれど、涙は止まらなかった。何に泣いているのか自分でもよく分からなかったけれど、何も聞かずにただ涙を流させてくれていることがありがたいなと思ったし、幼少期に逃げ出した環境が着実に遠ざかって無くなりつつあることにほっとした。

葬儀帰りの涙の意味

四十九日も終わり、産後うつの治療も一区切りを迎えた頃だったかな、父が居なくても私の日常生活は何一つ変わっていないことに妙な安心感を覚えた。同時に、父の死を悲しめない私自身の薄情さに違和感を覚えた。そして、なんとなく、父の死を悲しんで泣いた方が良いような気がした。
実は、葬儀の時に兄から父のホスピスでの講話DVDを受け取っていたのを思い出した。なんとなく見たくなくて、でも捨ててはいけないような気がしていたので、目につかないところに保管だけしておいたけれど、見てみることにした。
…父の人生は、娘である私をきっかけに変わることが多いようだった。父にとって、母のことはとても大切なのに迷惑ばかりかけたらしかった。そして、家族の話をしているはずなのに、何故か兄は登場しなかった。
父の人生には、確かに私は存在したらしい。それでも、そこまで語られても、私の思い出の中のどこにも、父を見つけることができなかった。結局、父は死んだけれど、私の日常生活は何一つ変わらなかった。父は確かに生きていたけれど、今はこの世に存在していないし、私の心の中にも存在していない。頼れるお父さんが欲しいと心の片隅で思い続けてきたこと、そしれそれはもう叶わないことはとても残念だし寂しいことだなと思った。でも、仕方ないことでもあるし、叶わないからと強がって頑張る必要もなくなった。
寂しいけれどほっとした。そんな感じだと思っていた。

私の本当の寂しさ

「それはとても寂しかったんじゃないですか」
父が亡くなったことで、家庭の中に頼れる存在が居なくて寂しかった自分に気づいて、親への期待が一区切りした、はずだった。理解者だと思える人、安心できる人が居なかった、それは確かに寂しかった。でもそれはメインの寂しさではないような…?

父の余命宣告以降、母と兄は私のことを責め続けた。父からも責められると思っていたし、責められるべきだと思っていた。
療養が続いている間に一度も見舞いに行かなかったこと。
余命が分かったのにホスピスに行かなかったこと。
話がしたいと言われた電話でろくに喋らなかったこと。
思いの詰まった講話のDVDを生前に見なかったこと。
最期に父の記憶の中に「良い子」の自分を残さなかったこと。
どれもこれも、父は私を責めなかった。”最期くらい”を拒絶したことは責められるべきだし、でも拒絶するほどの負の感情が自分の中にあること、そしてそれをぶつける機会を失ってしまった。たとえ分かり合えなくても、最後に向き合ってみようと思えるような期待ができなかったし、知ってほしいと思えるほどの期待もなく、相手を理解したい気持ちも持てなかった。
理解できなかった。理解しようと思えなかった。
理解してもらえなかった。理解してもらおうと思えなかった。


”できない”というのは責めてしかるべき・責められてしかるべきこと、という価値観は、母から受け取ったもの。
だから私は頑張った。産後うつで倒れたり、過労で倒れたりするくらい頑張った。

家族と向き合わずに勝手に気持ちを決めつけたり解釈する傲慢さ、そしてその奥底にある不安や怖さから目を背ける、という価値観は、おそらく、父から受け取ったもの。
”私”は否定されて然るべき存在で、でもそうではない価値もあるのだと思いたい。事実は変わらないとしても、自分の好きなように解釈する余地を残したい。だから逃げる。その言動はとても傲慢であることは理解している。

”身内”に腹を割って話せない。役割のない素直な自分で人と向き合うことが怖い。人と繋がりきれない寂しさ。
それは多分、とても父に似ている。けれどもう答え合わせができない。それが、とても、さみしい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?