差別と笑いの境界線④ 構成主義的情動理論について

以上のことから分かるように、差別においても、表現の自由においても、法的な問題は解決されておりません。双方の定義がはっきりしていないため、客観的な基準を設けることは難しいように思います。一昔前であれば許されていた表現も、時代の変化に合わせて規制される場合があり、また社会が多様化するにつれ判断基準がより複雑となっているように思われます。単刀直入に言うと、客観的な指標を設けるのは不可能だと言えます。

仮に、客観的な境界線を設けたとしましょう。客観的な指標を設けるということは、科学的な根拠に基づいて判断される場合と、権威のある人びとの意思決定に基づいて判断される場合があります。いずれにせよ、それは暴力的に作用し、異なる考えを持つ人びとを抑圧することになります。つまり、客観的な境界線を設けることは、いずれかの立場の人が不利な立場に追いやられてしまい、政治的対立が生じる可能性があります。

差別と表現の境界線を探る上で一番の課題はその点にあります。私はこれまで双方の定義を確認し、外的な規範の落とし所を探ってきましたが、いずれも客観的に判断することは難しいように思います。その理由として、人それぞれ内的な境界線が異なるからです。内的な境界線とは、差別的な営みや表現自体に対する判断基準が、個人の価値観に従って決定されるということです。それはつまり人それぞれ解釈の仕方が異なるからです。

それでは、なぜ、人によって受け取り方は異なるのか。同じ体験をし、同じ事柄であったとしても、可笑しみを見出す人もいれば、不快だと感じる人もいます。その判定はどのように決定されるのか。快というのは、欲求が満たされた場合に生じる快情動のことです。反対に、不快というのは、快くない状態となった場合に生じる不快情動とされております。私は、その情動というものが、境界線を探る上で鍵となる要素だと思います。

情動とは一時的に引き起こされる感情のことですが、その「快」や「不快」という情動は、どのようなメカニズムで生じるのか。そもそも情動自体がどのようなメカニズムで生じるのでしょうか。近年、新しい情動理論が注目されており、それは「構成主義的情動理論」と呼ばれております。それは差別的な表現の境界線を探る上で、とても重要な示唆を与えてくれると思っております。従来の情動理論を確認し、新しい情動理論について見ていきたいと思います。


情動理論について

一般的に情動とは、怒り、恐れ、喜び、悲しみなど、急激に引き起こされる心の動きとされております。私たちは、何らかの刺激に対して、悲しいときに泣き、嬉しいときに喜びます。そのような身体的な反応は、普遍的な情動として、人種や文化に関わらず、すべての人々に共通して現れる感情と考えられております。つまり、情動には本来備わっている普遍的な感情の指標があるということです。それはどの時代であっても、どの文化に属していようとも、同じような身体的な指標とされており、私たちはそれらを目安にコミュニケーションを図り、相手を理解するための重要な手がかりとしております。

これは従来の古典的な理論に則った考え方ですが、現在、新しい情動理論が注目されており、それは構成主義的情動理論と呼ばれるものです。構成主義的情動理論の提唱者である神経科学者のリサ・フェルドマン・バレットは、著書『情動はこうしてつくられる──脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』の中で、情動には客観的な指標はなく、そもそも普遍的な情動カテゴリ自体が存在しないと説明しております。情動カテゴリというのは、怒り、恐れ、喜び、悲しみなど、私たちが他者の感情を判断する際に、一般的に分類している感情のことになります。私たちは、情動カテゴリを目安にして、それらの感情を見分けることができる。その情動を見分けるための何らかの指標が存在しているからこそ、私たちはそれに従って怒りなどの感情を判断することができるのです。しかし、バレットは、そのような情動カテゴリがそもそも存在せず、情動は状況に応じてその場で構築されるものだと本書の中で説明しております。

ようするに、新しい情動理論では、そもそも指標など存在せず、その都度、外界から生じられた刺激を評価し、新しい情動が構築されると考えられているのです。バレットは次のように要約しております。

情動とは、外界で生じている事象との関係において、身体由来の感覚刺激が何を意味するのかをめぐって作り出された、脳による生産物なのである

言い回しは複雑ですが、バレットの主張は次のように言い換えることができます。私たちは、変化する外界(もしくは体内の変化)の状況に対して、常に、何らかの感覚刺激を受け取ります。脳は、概念として組織化されている過去の経験を用いて、その感覚刺激に意味付けを行います。そしてその概念が情動と関連する場合に、新たに情動として生成されることになるのです。

バレットはそれを情動インスタンスと呼んでおります。情動インスタンスとは、感覚刺激とそれに対応する情動に関連する概念との評価によって、その場その場で構成される心的な構築物のことです。それが、いわゆる、私たちが従来の理論として認識しているような、怒り、恐れ、喜び、悲しみなどの一時的な感情ということになります。

バレットは、先程触れた「情動に関連する概念」、いわゆる「情動概念」と呼ばれるものを、最も重要な要素であると説明します。「情動概念」は、情動インスタンスを構築する上で不可欠だとされており、私たちが、自身の情動を経験することができたり、他者の情動を知覚することができるのは、その情動概念によって、それ自体を認識し、評価することができるからです。先程、情動カテゴリは存在しないと説明しましたが、少なからず、私たちは何らかの目安となるものをもとに他者の表情を読み取りコミュニケーションを行うことができます。それは、生まれた瞬間から情動カテゴリというものが存在しているわけではなく、繰り返し経験してくいくことで情動概念なるものを獲得していくことになるのです。その点についてバレットは次のように説明しております。

怒りなどの概念を学習するにつれ、子供は、自分の身体感覚や、微笑み、すくめた肩、叫び、ささやき、噛みしめた唇、大きく見開いた目、まったく動かないこも含めて他者の動作や発生に意味を与えたり、予測したりすることで、怒りの知覚を構築できるようになる

つまり、その目安となる指標というものは、他者の情動表現(表情)に規則性を見つけていくことで、統計的に学習していくことになるのです。その結果、他者の情動を知覚し、自身の情動として内在化させることができるのです。私たちは、そのような情動経験を重ねていくことで、固有の情動概念を獲得していくことができるのです。


快・不快について

それでは、快や不快の情動は、どのように構築されていくことになるのでしょうか。一般的に、快は肯定的な情動であり、幸福や喜びなどの情動カテゴリと位置づけられます。他方、不快は否定的な情動とされ、怒りや悲しみなどの情動カテゴリに位置づけられております。快や不快は、情動カテゴリで分類されているような複雑さはなく、単純な情動として位置づけられております。バレットは、次のように説明されております。

単純な快や不快の感情は、「内受容」と呼ばれる体内の継続的なプロセスに由来する。内受容とは、体内の器官や組織、血中ホルモン、免疫系から発せられるあらゆる感覚情報の脳による表象を意味する。たった今、あなたの身体の内部で何が起こっているかを考えてみよう。そこには動きがある。心臓は動脈や静脈を流れる血液を送り出し、肺は空気で満たされたり空になったりし、胃は植物を消化している。その種の体内の活動は、快から不快、落ち着きから苛立ち、さらには完全に中立的な状態に至る、基本的な感情のスペクトルを生んでいる

内受容とは、生理的な状態が変化することで生じる身体内部の感覚のことです。それは内受容感覚とも言われており、その内受容感覚の情報を脳内で表象することで、快や不快とされる感情が生まれているということです。ちなみに、表象とは、その知覚を脳内でイメージし、心に現れてくる作用を意味しております。

気分として解釈される内受容感覚ですが、激しく身体に影響を及ぼす場合は、外界からの感覚刺激と同様に意味付けが行われ、情動インスタンスが構築されることになります。つまり、内受容感覚についても同様のプロセスで情動概念を経由し、情動インスタンスが形成されるのです。つまり、それが気分と呼ばれる分かりやすい情動ということになります。


身体予算管理領域について

私たちは、外部からの感覚刺激や内受容感覚を受け取った際、身体を動かすために常に脳内で予測を立てます。例えば、暑いときに汗をかいたり、エネルギーが不足したときにお腹が空いたりなど、それは生命を維持するための重要な役割とされております。脳は、それらの情報を処理するための領域を確保しており、その領域は「内受容ネットワーク」と呼ばれております。そこでは、外部や内部から受け取った情報をもとに、経験上どれくらいの身体のエネルギーが消費されるかを予測し、身体の予算の配分を予測しておく必要があります。

その身体の予算管理をする領域を、「身体予算管理領域」と呼ばれており、内受容ネットワークで最も重要な役割をしているとバレットは説明しております。「身体予算管理領域」は、常に予測を行っていると説明しましたが、それは快や不快などの気分にとても影響を与えております。外部や内部から受け取った情報が予測通りに反応された場合は、快い状態を保つことができ、その予測が間違った場合は、不快な状態と判断され気分が落ち込んでしまうことになります。気分を正常な状態に保つためには、身体予算の予測を的確に捉える必要があり、反対に、身体予算の予測が乱れてしまった場合に、不快な気分を感じてしまうということです。

脳は、常に概念を用いてシュミレーションを行なっております。外界からの刺激だけでなく、体内から得られた感覚刺激においても意味付けを行なっているのです。そして、身体予算管理領域の予測に影響を及ぼし、私たちの気分を変化させることになるのです。差別的な表現を目にしたとき、それ自体を感覚刺激として処理することになります。そして身体予算の予測を行い、内受容感覚の情報を脳内で表象することになります。その際に、情動概念と呼応、もしくは関連がある場合に、それが不快な情動として固有のインスタンスを生成することになるのです。そのタイミングで情動概念は更新され、それ自体に対して意味付けを行うことになるのです。


情動概念と社会的現実の関係性について

構成主義的情動理論が、古典的な情動理論と比して、ある種、コペルニクス的転回を彷彿させる理論であることは理解いただけたのではないでしょうか。差別的な発言に対して受容の仕方が異なるのは、情動概念が人によって異なり、多種多様な形で経験されているからです。そのため、ある発言に対して、快と感じるのか、はたまは不快と感じるのかは、個人のこれまで培ってきた情動概念による判断が異なるからです。

私たちは、日常生活の中で繰り返される経験によって、様々な情動概念を獲得してくことになります。それは、出身地方、家族、友達、教育、そしてあらゆる社会的なコミュニティのなかで育まれながら変化していくからです。バレットは、情動は社会的現実であると説きます。社会的現実とは、社会的な構成員によって共有された事実を意味しております。バレットは次のように説明しております。

私たちは、知覚者からは独立して存在する外界や、自己の身体に由来する感覚入力を、たとえば多数の人々の心に見出される幸福という概念の文脈のもとで、幸福のインスタンスに変換する。つまり概念は、感覚刺激に新たな機能を付与し、それまでには何もなかったところに、情動の経験や知覚という現実を構築する。「情動は現実のものなのか?」と問うより、「情動はいかにして現実のものになるのか?」と間うベきだろう。理想を言えば、その答えは、内受容のような、知覚者からは独立した脳や身体の生物学と怖れや幸福などの、生活に密着した素朴な概念のあいだを架橋することにある。情動は、社会的現実の成立に必要とされる人間の二つの能力を通じて、私たちにとって現実のものと化す

情動概念は、他者との情動経験を通じて、共有されていくプロセスを必要とし、それを共有する人々の間で同意されていることを前提としていると言えます。つまり、情動概念は、他者と共有することではじめて意味を成すのです。それは間主観的だと言えるでしょう。それはつまり主観的な経験による判断だけではなく、少なからず、他者との同意、または共有していることで立ち現れてくるということになります。

そこで重要だとされているのは、集合的志向性と呼ばれるものです。「集団的志向性とは、ある集団が共同的行動を行うことだけではなく、信念、欲求、意図のような志向状態を共有することを意味する」とバレットは説明されております。情動を通じて相手に伝えるためには、それ自体を事前に共有しておく必要があります。例えば、古典的な情動理論のように、情動カテゴリが存在しているというのも、ある種の集合的志向性があるからです。つまり、顔の表情によって感情を見分けることができるのは、情動カテゴリを共有し、互いに判断するための指標を共有しているからです。

私たちは、何かを意思表示するためには、事前にそのことを共有している必要があります。しかし、それは暗黙の了解として成立しているにすぎません。集団的志向性には客観的な「現実」は存在しませんが、一定数の集団の中で共有されている「現実」であると言えます。それが「社会的現実」と呼ばれるものなのです。

つまり、まとめると次のように言い換えることができます。客観的な指標としての「現実」は存在せず、集団の中で存在する「社会的現実」のみが存在する。そして、情動概念である個人の判断基準は、その「社会的現実」の中に存在するということになります。つまり、本論の探っている「境界線」というのは、「社会的現実」の中に存在するということになります。


今回、構成主義的情動理論に着目したのは、差別的とされる表現の境界線を、内的な規範が存在すると判断したからです。しかし、上記から分かるように、内的な境界線は存在せず、それ自体は外部の集団の中に存在すると言えるでしょう。つまり、外的な境界線も、内的な境界線も、存在しないということになります。

ある表現に対して不快と感じるか否かは、受容者が獲得している概念、もしくは情動概念が関係しています。その情動概念に不快と感じる場合に、不快とされる情動インスタンスが構築されることになります。この段階では、内的な判断によって、それ自体を評価していることになりますが、しかし、その情動概念自体は、集団的志向性により共有されており、内的な判断でありつつ、外的な要因で決定されていることになるでしょう。しかし、その「社会的現実」を解釈しているのは、個人個人の裁量に委ねられるため、人によって解釈にばらつきが存在します。つまり、それを判断するための境界線は人によって異なるということです。つまり、境界線は複数存在するということになります。

境界線が複数存在するというのはどういうことか。それについて次回検討していきたいと思う。


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