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綿帽子 第三十八話

『うう』


前日に入院して準備を整えてから翌日の午前中に手術をすることになっていたが、前回の入院中とは全く別次元の神対応とでも言いましょうか。

入院している病棟が別なおかげか、はたまた1日しか入院しないせいなのか、先手を打ってチョコの差し入れを看護師さん達のいるナースステーションに届けた効果なのかは定かではないが、別次元のような神対応に動揺を隠せない。

しかもあっという間に時間は過ぎ、手術室にいる俺。
既に腕には点滴の針が刺さっている。

「それでは点滴を始めますので楽にしてくださいね」

「はい」

点滴が流し込まれ、段々とぼんやりとしてきた。

まだ先生たちの声は聞こえている。

あれ、これやっぱり意識が完全になくなるわけではないな。

「〇〇さん、それでは始めますね」

その声と同時に、色々と口の中を弄られている感触はするのだが、当然痛みはない。

「はーい、では今から抜きます」

「はい」と言ったつもりが、ちょっと上顎に圧迫感を感じたと思ったら、既に歯が抜かれている。

「やっぱり空いたな、だけど隣は大丈夫そうだぞ、ここも行けるな」

声が薄ぼんやりと聞こえてくる。

「それでは予定通り内部を洗っていきますね」

そう言うと執刀医の先生は何やら管の様な物を口に突っ込んできた。

本当に鼻から水が出てきてる。
その後も何やら色々言っていたがはっきりとは覚えていない。

〇〇さんと呼び起こされた時には全てが終わっていて、先生がある程度の経過を説明してくれた。

まだ頭がぼんやりしていたので、病室に戻ってから再度お知らせしますとのことだった。

そこからどうやって病室に帰ったかはハッキリと覚えてはいない。
しばらくして鎮静が切れてきた頃に先生がやってきた。

「全て上手く行きましたが、やはり上顎に穴が空きました。そこから水を流し込んで中を洗いましたので、これでもう内部が化膿することはないと思います。気持ち悪く感じると思いますが、段々と肉が巻いて来て穴が自然に塞がります、そこを用心してお薬を使ってケアしていきましょう」

「予想よりも他の部分は大丈夫そうだったので、今回はそのまま残してあります。これで敗血症再発の可能性が全てなくなったわけではありませんが、ひとまず安心してください。また次回の診察の時に診させてください」

「今日はもうこのまま、お帰り下さって結構ですよ。まだ薬が効いていると思いますので足元にお気をつけてお帰りください」

「はい、有難うございます。先生お世話になりました」

俺は薬が効いているせいもあったが、しばらくそのままベッドに腰掛けながら動かずにいた。

これで敗血症の恐怖から少しだけ遠のいた、そう思うと直ぐに動けなかったのだ。

しかし、退院手続きはしなくてはならないので、うかうかもしてはいられない。

体が酷く重たかったけど、荷物を持ってナースステーションに向かった。

「有難うございました。お世話になりました」

ナースステーションにいた看護師さん達に挨拶を済ませてから、エレベーターホールに向かう。

今回の入院は前回とは比べものにならないぐらい看護師さんたちが丁寧で、その違いに戸惑ったりしたが、終わり良ければすべて良し。

一階に降りて退院手続きという難関をクリアしなくては。

時間は経てど耳の回復は遅し。
手元はほとんど歪んで見えているので、書類へのサインも一苦労だ。

こんな時に代わりに全てをこなしてくれる人はいないのかと嘆いても、きっと嘆く時点で手に入らないのだ。

ただ、これでカミキリムシの憂鬱からは解放されるかもしれない。
それだけは確実に前進したと言える。

何とか手続きを終えて、タクシー乗り場に向かう。

お袋が病室まで迎えに来てくれていたので、一緒に帰る。

特に荷物を持つわけでもなければ、手続きを代わりにしてくれるでもない。
逆に荷物を持たせることで転ばれても困るので、気を使って神経をすり減らす。

それでも来てくれるだけで感謝しなければならないとは思うのだが、自分一人で帰る方が余計な気を回さなくて済むのだから、何とも言えない気分にさせられる。

俺は二ヶ月以上を怯えながら過ごしていた。

一番リラックスして、回復に全力を注がなければならない時期に、自宅が一番リラックスできない場所なのは変わらない。

家に着くとまた犬が近寄って来た、ペロペロと手を舐めようとする。
邪険にするわけにもいかず、かといって必要以上に接触するわけにもいかず、犬の立場になってみれば家の中で一番好きな人に適当に扱われるのだから困惑していることだろう。

可哀想には思ったが、抵抗力のない俺は突き放すしかないのだ。

この頃から俺は不思議な経験を積み重ねるようになってゆく。

翌朝起きてから鏡を覗き込むと、見事に頬が腫れ上がり結構なイケメンになっている。

多少噛むのに苦労をしたが朝食を済ませてから散歩に出た。

この日もいつも通り町人達に歓迎を受け、一通り掃除を済ませてから自宅に戻る。

そして、俺は昼食を取ってから再度散歩に出た。

歩く方向は同じだが、公会堂の方に向かわずに途中から右に逸れてそのまま進んで行く。

やがて、田んぼの畦道に出る。
用水路が道沿いにあるのだが、その向こう側はもう山だ。

山の手前にも用水路沿いに細長い道が続いている。
山に分け入ることはせずに、用水路沿いを覗き込みながら進む。

かなり綺麗な水が流れていて、所々に何やら仕掛けが置いてある。
考えられるのはザリガニにドジョウ、それにタモロコ等の小魚類だろうか?

それにしたってそんなもの獲ってどうするのだろう?
食べられそうなのはドジョウぐらいだろうけど、今時ドジョウを獲って自宅で食べる人がいるとは思えない。

それに、周囲を見渡すと除草剤を撒かれた後もあるし、これは一体?と謎は深まるばかりだ。

しばらくそんなことを考えながら、畦道を行ったり来たりしていたのだが、悩んだところで結論は出ない。

諦めて家に帰ることにした。
二、三日この場所に通って様子を見よう。

Uターンして畦道を引き返す。

ぼんやりと空を眺めながら歩いていると、用水路の向こう側の道から何やら走ってくる。

一瞬の出来事に思わずその場に立ち止まる。

「え?」

気がつくと目の前に兎がいる。

お互いが驚いて立ち止まる、そして目が合う。
アイズトゥアイズ、アイコンタクトとでも言いましょうか。

いや、コンタクトは取れていないだろうから単純に驚いただけなのだろうが、兎の方もこちらを見ながら動きが止まっている。

そのまま数秒間が過ぎた、しかしそこは兎。
流石、野生とでも言いましょうか?

兎は突然くるりと反転すると、素早くやって来た方向へと走り去った。

俺はというと「え?」「え?」と5回ほど連発しながら後退りしようと試みた足元に、今度は何やら黒い塊があるのを発見する。

慌てて跨いだその場所にはトグロを巻いた蛇がいた。

跨いだ右足をそっと引き戻し、マジマジと蛇を見る。

大丈夫、かなり大きいけど毒を持っていないシマヘビがトグロを巻いて眠っていた。

一安心した俺は、なるべく物音を立てずにその場を離れると、再び自宅へと歩き出した。

それにしても、兎にビックリさせられてうっかり蛇を踏みそうになるとは。

毒蛇だったらという思いは全く浮かばず、蛇が足元にいてちょっとラッキーって思った俺はきっとどうかしてる。

それにしてもあの仕掛けは一体何の為なのだろう?

蛇に出会ったことは一瞬で忘れて、兎に出会った喜びだけを噛み締めながら歩き続けた俺は、この春追加で5回ほど蛇に遭遇することになる。


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