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地球の表面から海がこぼれ落ちない

2022.2.8

昨夜は体調のぐらつきを感じたので9時前に寝た。起きたら朝9時。おでこに目立たない吹き出物がいくつか春の新芽のようにぽつぽつと。ああ、これはあの日の油たっぷりのパンケーキだな。米粉のパンケーキミックスに油を混ぜて使うもので、鉄のフライパンの場合はさらに油を引かないといけなくて、油がましましになった。口に入れても油の味がした。お昼ごはんは、出先で買ったシルクスイートのねっとり焼き芋とちくわ。焼き芋は皮ごと食べたいがやはりちょっと苦い。いつもの本屋でレイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」を買う。あと薬草の本と「ドイツ人はなぜ、年収290万円でも生活が豊かなのか」というタイトルの本。本屋へ入れば少なくとも十冊は欲しい本がある。でも重くて持ち帰られないし、何より経済的にも躊躇が入る。

今日は鍼治療。二週間に一度通い始めた。温灸も。さらにぽかぽかする赤外線をあてられ、目の上にはホットパック。身体のあちこちがじんわりこうも温かいと突如じぶんの本体電源を落とされたようにがっくり眠くなる。もっとこのまま泥のように寝ていたいのにと思いながらも短い施術は終わり、黄金色に傾きはじめた冬の光のなかを帰路につく。都内で通っていた時もいつもそうだったのだけれど、鍼治療のあとのからだは多幸感で満ちている。これ以上はないというやさしさで空気にやさしくマッサージされているような。やったことないけど麻薬(という言い方でいいのかな)のたぐいをやったらこういう感じなんじゃないかなあ、とぼんやり思う。

たまに行く魚屋さんで旬のお寿司五貫盛り合わせと貝づくしセットを買う。さび抜きで作られているのでうれしい。ひとりならパックのまま食べるところを、今日はなんとなくいちばんお寿司に合いそうなタイの四角いお皿に並べてみて、ゆっくり味わって食べる。作り置きにもなるし簡単にお味噌汁を作ろうかと思ったけれど、明日や明後日のことに今から気をとられるのもなと思い直し、鰹節とお味噌と乾燥わかめにお湯を注ぐだけの即席にする。あさってはまた一日雪だそうだ。仕事はしなくちゃだけど、本と食べ物があるからお籠りすると思う。

2022.2.9

朝から晴れ間がのぞいていると嬉しい。初めての映画館へ濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」を観に行く。前回映画館へ行ったのはたしか大晦日の前の日で、なんだか年の終わりに大きなスクリーンで何も考えずに愉しく観れるものが良いと思って直感的に「キングスマン」。「ドライブ・マイ・カー」は友人たちが口を揃えて良かったと言っていたのでわざわざ遠出してでも観たくなった。なんの特徴もなさそうな街の小さくて年季の入った映画館だけれど、レディースデイなのもあってか満席、立っているひとまでいた。高齢の方が多い。そういえば江の電以外の電車に乗るのも、まったくはじめての街へ降り立つのも数ヶ月ぶりで視界が五段階くらいクリアになったような、いつもとはちがう眼鏡をかけているようなすがすがしい気持ちがした。コロナ療養の果てしなく長い十日間のあと、はじめて外の世界に出たときのあの感覚を思い出す。できるだけ今の自分が過ぎた時間に干渉するのはしたくないけれど、それでもあの時に感じたことは生きていくうえで忘れたくない。一体なんのために生きるのか、生きているのか、そういうことの深淵に意図せず触れてしまう経験はそう多くはないから。あのとき全身で感じてしまった世界のしくみ、ウイルスに罹らなければ到底気付かなかった、生きている意味と無意味。

三時間の映画の旅はあっというまで、いい映画を見ると決まってお腹が空く。お昼どきも過ぎてとりあえずなにかお腹に入れようと探していると、ふだんよく行くチェーンの自然食品店が映画館の隣接ビルに入っているのを見つける。お弁当とひじき煮、米粉のお菓子を買い、駅の近くに殺風景な公園をみつけてベンチに落ち着く。風が冷たい。明日雪だからか。無心に食べる。いい映画を見終わった直後は現実に戻りにくい。目の前を通行人が通り過ぎていくのも示し合わせのように思える。

帰りに鎌倉駅でいつものライ麦パンを買う。フィンランド人の店主が焼くライ麦百パーセントの香ばしいパン。レジに立つ四十代半ばくらいの女性が「明日の雪はどんな感じなんでしょう。雪っていっても全然うれしくない」と苦笑した。帰宅し、本棚から濱口監督の「カメラの前で演じること」を引っ張りだして読む。ある映画作りの経緯を順を追って記したその記録を読んでいると、まるで彼の映画づくりは科学だと思う。すべてがれっきとした論理に裏付けされているというか、予感(仮説)、組み立て、実験、記録、考察、検証、分解、再構築、再実験を気の遠くなるほど繰り返してできあがっている。すぐれた感性、または芸術は徹底した論理に裏打ちされているのだということをますます思う。今日の映画はいくつも印象的な場面があった。いちばん心にのこったメッセージみたいなものは、人と人同士の関わり合いにおいてちゃんと傷つくことは大切だということ。むやみやたらと傷つく必要はもちろんないけれど、傷ついているのに傷ついていないふりを続けていては(ほんとうの気持ちをごまかしつづけていては)やがてその関係が破綻するのはまちがいない。

2022.2.10

生きていくにはなんらかの軸(信念)が必要だ。生活の糧を得るための仕事はそれに当たらない。生きるための仕事にそれは見出せない。仕事とは別にその軸(信念)をひとつ確かに持たないといけない。でなければ生きた心地がしにくい。ただ存在しているだけになってしまう。それは別に心地のわるいことではないから、だからこそ怖いのだ。気がついたときには人生の大半をとくに心地わるくないまま過ぎてしまっていたというようなことが。

軸(信念)をもって生きることは、心地のよい瞬間が多いということではおそらくないはずだ。むしろ心地よくないことのほうが多くて、でもそれが軸(信念)をもつゆえである以上、唯一無二の生きがいがそこに生まれる。生きがいというのは決して、心地がいい状態でいる時に感じられることではない。苦しみは常であり、その苦しみの中でどう生きることに意味を見出していくかが人生だと仏教はいうけれど、そういうようなものかもしれない。ここで、苦しみは避けねばならぬものではなく、この世の常であると捉えることは、決して悲観的なことではない。そうであるからこそどう生きたいのか、どんなエネルギーで行きたいのが力強く立ち上がってくるからだ。いずれ地上を離れていかなければならないその時、生き切ったとしっかり思えるような人生であるためにどうするか。そういう欲は捨てたくない。欲はなんでもかんでも不要なわけではない。

なにを軸(信念)として据えよう?

地球の表面から海がこぼれ落ちないこと。時間のほんとうの正体。人はなぜ出会うのか。なぜもう二度と出会えない人がいるのか。なぜわたしたちは外の世界を内臓するしくみとしてのからだを持つのか。そういった万象、大自然。あらゆる縁起。風のように日夜吹きまわるだけのそれらにむかってそっと手をのばし、すくい、見つめ、咀嚼し、また世界へかえす。それは再構築という作業だ。こころを伴う作業は、身体があるうちにしかできない。この世にいる間にしか。つまり物語ることを、物語らなければならない。わたしはわたしの限り、この世にある限り。


2022.2.11

ふたりからひとり。市指定のごみ袋のサイズが小さくなること。床に舞う埃が減ること。冷蔵庫の食材がなかなか減らないこと。食欲までちいさくなるような気がすること。晴れの日が底抜けに明るくて、こわいくらい静かな夜のお腹に吸い込まれそうになること。夜がささやき始めること。めくる本のページが増えること。不安にかられる回数が増えること。なんでもないことで予期せず泣いてしまったりすること。

「上の息子が結婚するそうだ。相手の人を連れてきて、主人と四人で近所の店に食事へ行った。最近はあまりものを噛み砕く力がないので、一生けんめい噛むことに集中しなくてはならない。そのおかげで、あまりお嫁さんになるひとの身の上話を聞くことができなかった。何かのご縁でこういうことになったのだけど、そのご縁について深く考えてみることはしない。というか、できなくなってしまった。力がない。考えすぎなければ、毎日はそうつらくもない。朝がきて、昼になって、夜がきて、眠る毎日が。薬を飲み忘れることや、人ごみに出ること、トイレに行きたいときに行けないことは毎日の生活の中での不安要素ではあるけど、それ以外にとくに大きな不安は思い浮かばない。今日もあしたも生きているだけ。ただ孫の顔はみたい。それはずっと思っているのだけど、今日いまの時点では、まだ叶っていない。叶いそうな気配だけはずっとあるのに、まだ実現していない。いまかいまかと心待ちにする自分が、日に日におまんじゅうのように大きく膨らんでいくようで、どうしようと思う。自分の力ではどうにもならないことだとはわかっているのだけれど。ふくらし粉を入れすぎたおまんじゅうは湯気の中でどうなってしまうんだったかしら。そういえば全然べつのことだったと思うけれど、前にもふくらし粉をいれすぎたことがあった。あの時はしばらくのあいだ知らないベッドで寝なければいけなかった。あんな目にはもう遭いたくない。とにかく孫の顔はみたい。それだけがわたしのお願いごと。」




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