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11.4.3 近代諸科学の発展 世界史の教科書を最初から最後まで

19世紀以降の近代科学のベースは、すでに啓蒙主義の時代にあった。


「学問をどうやって発展させていくか」
「学問をどうやって研究するべきか」


こうした学問のシステムのほとんどは、国家主導での近代化をすすめ、そのための教育機関として大学を重視したドイツで生まれた。

「強い国、国のために尽くす国民」を養成するために、高等教育の機関である大学とともに、職業教育や普通教育機関が、国主導でピラミッド型に整えられていったんだ。




哲学、政治・社会思想の分野


哲学者としては、プロイセン王国のカント(1724〜1804年)が、すでに「ドイツ観念論」哲学を完成させた。

人間は、生まれつき備わった「認識の枠組み」に従って、現実を理解する。これは「判断の枠組み」を超えるものについては、認識の対象外ということ。つまり逆に言えば、人間は現実を、理性の”フィルター“を通して、ある意味 “見たいように見る” んだというわけだ。


カントの考え方を批判的に受け継ぎ、発展させていったのが、神聖ローマ帝国の中の領邦(ヴュルテンベルク公国)生まれヘーゲル(1770〜1831年)だ。
彼は、人間の「理性」が、長い歴史を通して、まるで人間が赤ん坊から立派な大人になっていくように成長していったのだと考えた。

『精神現象学』(1807年)では、自分に対する意識が、他者との出会いを通じて共同体や国家における「法」や「道徳」を生み出し、それがやがて「普遍的なゴール」(絶対知)に至るのだというコースを論じた。



あるものが、別のものとの“ぶつかりあい”によって、より高いレベルに発展するのだという考え方を「弁証法」という。
「人間の意識」と『この世の現実』を “対立する別々の存在” として描くのではなく、弁証法を用いれば、「意識」が『現実』を変え、同時に『現実』が「意識」を作り変えるのだというふうに考えることができるようになる。

なんだかアタマでっかちな考え方に見えると思うけど、ヘーゲルはこの弁証法哲学によって、「人間の理性には現実社会をつくりかえる力があるんだ」ということを示そうとしたわけだ。


ヘーゲル派の唯物論はやがてマルクスに受け継がれていった。
マルクスはヘーゲルの考え方をさらに押し進め、「人間の意識っていうのは、じゃあ何によって規定されているのか?」ということを考えた。
マルクスの考えでは、「ある時代の人間が共有している意識」は、その時代の人間が基盤としている “モノを生産する方式”(生産手段) や “そこに生まれる人間どうしの力関係” といった社会的関係によって規定されている。
個々の人間は一見自由に考えているように見えても、人間集団を “家”に例えれば、生産手段や社会的関係(1階部分=下部構造)によって、その集団の意識(2階部分=上部構造)が決まっちゃうんだよということだ。
現状で人間集団を支配している考え方は、資本主義の社会的関係。自然から原料を採取し、機械を用いて労働者に給料を払って工場ではたらかせ、生まれた利益のほとんどは資本家が取っちゃうというカラクリだ。

この1階部分をなんとかしなければ、みんないつのまにか2階部分が “当たり前”だという意識になっちゃう。
それは違うよ、目を覚まして。
マルクスはそう訴えたのだ。
マルクスのこのようなアプローチを「史的唯物論」というよ。

「労働者は、自分の生産する富が大きくなればなるほど、自分の生産活動の力と規模が大きくなればなるほど、みずからは貧しくなる。商品をたくさん作れば作るほど、かれ自身は安価な商品になる。物の世界の価値が高まるのに比例して、人間の世界の価値が低下していく。労働は商品を生産するだけではない。労働と労働者とを商品として生産する。」

マルクス(長谷川宏・訳)『経済学・哲学草稿』光文社古典新訳文庫、2010年、91-92頁。


とはいえ当時、資本主義発展のトップランナーに立つイギリスでは、「近代社会」という人類にとって初めて経験する社会をどう生き抜くべきかという思想研究がすすめられた。

ほとんどの人が“田舎”に住んで農業をやっていた時代と、見ず知らずの大勢の人々が都会にわっと押し寄せる時代とでは、物事に対する考え方は根本的に異なるからね。

たとえばプルードン(1809〜1865)は言う。

個人は、自分でよくわかっている動機、あるいは自分の意志で拒否も同意もできる自分だけの動機にのみ従う、あるいは従えると思っている。一言でいえば、自分は自由だと思い、そして知性と教養が深まればますます自由になれると思っている。それにたいして、社会は何かの力によって動かされる。一見しただけでは、そこに特別な意志や計画など少しも感知できないけれども、しだいに、社会は何かしら上位の指図で動いているように見えてくる。社会の外に存在するものが、ある未知の終点にむかって社会をいやおうなしにつき動かしているようだ。君主制とか共和制ができるのも、身分の区別が生じるのも、司法の制度が定まるのも、こうした社会の無意識のいとなみによるものなのである。

(出典:ピエール=ジョゼフ・プルードン(斉藤悦則・訳)『貧困の哲学 上』平凡社、2014年、15頁)



新しい社会をどのようにデザインすべきかをめぐって、イギリスではベンサム(1748〜1832年)の功利主義、ジョン=ステュアート=ミル(1806〜73年)

一方、フランスのコント(1798〜1857年)の実証主義という立場をとり、社会の読み解き方と具体的な処方箋(しょほうせん)を提示した。コントの実証主義は、現在の社会学のルーツとなる。
コントの関心は、産業革命と市民革命という2つの革命によって生まれた、種々の問題をどう解決するべきかという点にあった。

「考えた結果、コントは、新しい社会においては、産業者の世俗的権力と並んで、或いは、それを越えて、実証的科学者の精神的権力がなければならなぬ、と説く。それは、かつて中世の教会が果たした組織的統合的機能を新しい産業の時代に果たすものである。」

清水幾太郎解説、同編『世界の名著36 コント、スペンサー』中央公論社、1970年、20頁。

コントの終生変わらぬ根本的な問題意識は,当時のフランスさらにはヨーロッパの全体にひろがっていた無政府状態anarchieに終止符を打ち,統一unitéを再建することにあった。彼は当時の世俗的無政府状態が根源的には知的・精神的な無政府状態に由来しているとみ,知的・精神的な統一を樹立することこそが,時代の最も重要な課題であると考えた。しかし他面では,その人類の精神的発展に関する〈三段階の法則loi des trois états〉にもとづいて,人類精神の改革を主張した。すなわち,彼は神学的精神による統一の再建は不可能であり,形而上学的精神を経て,究極的にはただ実証的精神にもとづいてのみ可能であると考えていた。〈諸科学の序列〉の原理にもとづいて,数学から社会学にいたる一つの実証知の体系をつくりあげ,さらにこれを普及させることによって,知的そしてさらには世俗的な無政府状態に終止符を打つことに向けられたのである。

出典:村井久二「コント」、『世界大百科事典』

この神学的精神は、さらに3つのレベルにわかれる。
もっとも低レベルとされたのが「拝物教」で、もっとも進んでいるとされたのがキリスト教の神学だ。

最初は高等動物の持つ精神状態とほとんど差のなかった神学的精神の第一段階のうちでも、最も進んだ形は天体崇拝である。進学的哲学の最初の形態は、あらゆる人間社会の知性史にはっきりと残っている。しかし、それは、今日ではもう、人類を構成する三大人種のうち最も数の少ない人種[訳註:黒人種のこと]しか、直接には支配していない。
神学的精神の第二の本質的形態は、近代人がしばしば前述の拝物教と混同する、本当の意味での「多神教」である。[中略]人類の大部分はまだ、この段階から抜け出していない。三大人種のうちで最も数の多い人種[訳註:黄色人種]のこと、および黒人種のエリート、白人種の最も遅れた部分が、今日でもまだ、この段階にとどまっている。
神学的精神の第三の形態は、いわゆる「一神教」である。

コント『実証精神論』(1844年)、清水幾太郎編『世界の名著36 コント、スペンサー』中央公論社、1970年、148-149頁。


こうしたコントの思想に1850年代に触れたのが、イギリスのハーバート・スペンサー(1820〜1903年)だ。

彼は、社会をひとつのシステム(有機体)とみなし、単純なものから複雑な物に分化していくのだと主張した。

一般に通用している進歩の観念は目的論的である。すなわち、進歩という現象を人間の幸福との関わりにおいてのみ捉え、直接間接に人間の幸福増大に役立つ変化のみを進歩と認める。しかも、そうした変化は、人間の幸福増大に役立つという理由だけで、進歩と見なされるのである。けれども、進歩の正しい理解のためには、利害を離れて考察した場合にそれら変化の本性が何であるか、これを研究しなければならない。
[中略]
そこでまず、この有機体進歩の法則[筆者注:ヴォルフ、ゲーテ、およびフォン・ベーアが明らかにした生理学的な分化の法則]が一切の進歩の法則であることを明らかにしよう。地球、地球上の生命、社会、政治、製造、貿易、言語、文学、科学、芸術、そのいずれの発展においても、単純なものが順次の分化を経て複雑なものに至るこの同じ進化が遍く見られる。

スペンサー『進歩について』、清水幾太郎編『世界の名著36 コント、スペンサー』中央公論社、1970年、399-400頁。

たとえば、パプアの「未開」人よりもヨーロッパの「文明」人よりも脚が長い点を例としてあげ、さらに社会自体も「適者生存」(優秀な個体が生き残り、劣った個体は滅ぶ)の法則に基づいて進化していくとする「社会進化論」へと発展することとなる。身分だって、文字だって、音階だって、建築だって、技術だって、「未開」人よりも「文明」人のほうが複雑で多様になっていくじゃないか、というわけである。

こうした発想のもとにあったのは、ヨーロッパやアメリカでは「優秀な欧米文化が、劣ったアジア・アフリカのやつらを圧倒するのは必然だ!」という人種主義的な考え方や、ダーウィンの「適者生存」に基づく進化論を社会に適用させた考え方であり、これらを社会ダーウィニズムとも呼ぶ。

反対に、アジアやアフリカの人々の中では「劣った俺たちが植民地化されないためには、優秀なヨーロッパ文化を吸収する必要がある」とか「俺たちアジア人は、劣ったアフリカ人のようにならないようにしなければ」といった、「人間が人種によってランク付けされている」という世界観を生み出していくことになるよ(社会ダーウィニズムともいう)。



ロマン主義と国中心の考え方

さて、「ロマン主義」や「国中心の考え方」(ナショナリズム)の影響は学問も受けた。

「自分たちはどこからやってきたんだろう?」
「ドイツ人らしさって何だろう?」

歴史への関心から、ランケ(1795〜1886年)によって「過去にほんとうにあったことを、どうやったら厳密に調べられるのか?」という研究がすすめられた。
「その史料に書いてあることはほんとうに正しいのかチェックする方法」のことを「史料批判」という。ランケは、今では当たり前に行なわれているテクニックを確立したのだ。

こうして歴史に関する研究は、人間の社会について研究する上での必須項目となっていったんだ。



経済学


「産業の時代」において、国が発展する上で欠かせないのが経済の発展。

経済の仕組みを研究する経済学の方法論が、急速に発展していった。

18世紀イギリスのアダム=スミスの流れを引く、マルサス(1766〜1834年)やリカード(1772〜1823年)は「自由な経済活動こそが、人間の社会を豊かにする」という発想もとづき研究を進めた。
彼らの学問グループのことを「古典派」といい、学問分野を「古典派経済学」というよ。

とくにマルサスは、このまま人口が増えると、やがて必ず “成長の限界” にぶち当たると、人口問題を予言。

さらにリカードは、「商品の価値は、投入された労働によって決まるが、その価値のほとんどは資本家が持っていってしまう」という “利潤” のカラクリを理論的に突き止めたことで知られるよ(労働価値説)。


しかし、「古典派経済学」が、どの地域にも通用する経済の一般的な法則を追究したのに対し、ドイツ地域のリスト(1789〜1846年)は反対。

ドイツにはドイツの歴史的な事情があるんだから、これから発展しようっていうドイツ地域がイギリスと「自由」に競争したってかなうわけないじゃないか。

このような彼の主張を「保護貿易」という。
彼の主張は1834年にプロイセン王国を中心とするドイツ関税同盟結成につながった。


さらにドイツではマルクスが史的唯物論をベースに、「資本主義」というシステムがどのような仕掛けになっているのかを、”歴史“的なアプローチで研究。
その成果は1867年に『資本論』(第1巻)として刊行されるや、大反響をもたらした。


このマルクス主義経済学で研究されたことを実際の人間社会で実現させようという動きが、その後世界各地でまk。


自然科学


理系の自然科学においても、さまざまな革新的発見がつづいた。
とくにイギリスのダーウィン(1809〜82年)による生物学の革新は、生物学の枠をとびこえ、ほかの学問や世界中の人々の考え方にとてつもないインパクトをもたらした。


「人類はサルから進化した」
「人間は生物の中で ”特別“ な存在ではなく、その一員にすぎない」
「生存競争に勝った個体は生き残り、負けた個体は絶滅する」


キリスト教的な価値観では、すべての生物は「天地創造」の際に神様がデザインして生み出したものだったはず。


それが進化によって変化していくなんて、衝撃の主張だった。

また、オーストリアのメンデルの実験がきっかけとなって、動植物の特徴が「遺伝」という仕組みによって子孫に伝えられていくことも明らかとなった。

コッホ(1843〜1910年)やパストゥール(1822〜95年)によって、細菌学や予防医学が発展。コッホ博士は、1882年に結核菌を発見し、ツベルクリンや最近の培養法も開発した。


破傷風の血清開発やペスト菌の発見で知られる北里柴三郎(きたざしばさぶろう)の師匠だ。


「衛生」は人為的にアップできるという公衆衛生についての知識も広がり、幼児死亡率も低減。


平均寿命もぐんぐん伸びた。



大学や企業での発明も加速。
化学や工学の発展をベースに、人造染料の合成、

ガソリンエンジン、ディーゼルエンジンが発明された。


電気や石油をエネルギー源とする時代を導く。



・マイヤー[ドイツ]とヘルムホルツ[ドイツ]:エネルギー保存の法則


・ファラデー[イギリス]:電気化学電磁気学


・レントゲン[ドイツ]:X線の発見


・キュリー夫妻[仏、妻マリーはポーランド出身]:ラジウムなどの放射性元素の発見


近代科学やテクノロジーの発展により、人間は自然環境を改造し、自然を人間のために役立てることができるという見方も広く共有された。


「探検」


ヨーロッパ人にとって未知の世界や土地の踏査し事情をあきらかにする探検も積極的におこなわれ、17世紀以降、タスマン(1603〜59年)がオーストラリアを探検。


さらにイギリスのクック(1728〜79年)も太平洋を探検しニューギニア島、ニュージーランド、ハワイについてヨーロッパに伝えた。
オーストラリアの先住民であるアボリジニ

ニュージーランドの先住民であるマオリ、そして、ポリネシア人・メラネシア人・ミクロネシア人などの分布する太平洋地域にも、いよいよヨーロッパ諸国やアメリカが進出していくことになるよ。


19世紀後半には、リヴィングストン(1813〜73年)やスタンリー(1841〜1904年)がアフリカの奥地を探検。


ヘディンや

スタインによりさらに中国奥地や中央アジアの学術調査もおこなわれた。


20世紀に入ると国の誇りをかけて極地探検が競わせるようになる。

これらの探検の結果、世界各地の情報が欧米にももたらされるようになり、言語学・民族学、のちの文化人類学につながる業績も発表された。

その一方で、こうした一方的な「探検」は欧米の強国によるアジアやアフリカへの進出を手助けする側面があったこともまた事実だ。



コミュニケーションと交通


また遠く離れた地点を結ぶコミュニケーション手段も発展。


・モース(モールス)[アメリカ合衆国]:電信機モールス信号の発明


・エディソン[アメリカ合衆国]:電灯の発明


・ベル[アメリカ合衆国]:電話の発明


・マルコーニ[イタリア]:無線電信の発明


陸海の交通手段も発達し、欧米から各地(とくに植民地)を結ぶ定期航路ネットワークにより、「世界旅行」(海外旅行)も “夢”ではなくなった。


資料 マクルーハンのメディア論
マクルーハンは、すべてのメディアは、本来的に、それ自体で、それらが伝えるメッセージに関係なく、人間と社会に抗しがたい影響を与えると主張する。先史時代、ないしは部族時代の人間は、五感の調和を保って存在していた。そして、聴覚、嗅覚、視覚、味覚を等しく使って、世界を知覚していた。しかし、技術革新は、人間の能力と五感を拡張し、この五感のバランスを変えてしまった。今度は、このバランスの変更のほうが、技術を作り上げた社会を、容赦なく作り変えてしまった。マクルーハンによれば、これまで3つの基本となる技術革新があった。一つは表音文字としてのアルファベットで、これは部族時代の人間が持つ五感のバランスを強烈に揺さぶり、目を支配的な感覚器官にしてしまった。二つ目は、16世紀の活版印刷の導入で、これはこの過程の進行を加速した。三つ目は、1844年の電信の発明で、これは人間の五感のバランスをもとに戻すことによって、最終的に人間をもう一度部族社会に戻すことになる電子革命の到来を告げた。

エリック・マクルーハン、フランク・ジングローン(有馬哲夫・訳)『エッセンシャル・マクルーハン―メディア論の古典を読む』NTT出版、2007年、16頁。



19世期後半には、ドイツのツェッペリン(1838〜1917年)が新型の飛行船の運用に成功。

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20世紀初頭にはアメリカ合衆国のライト兄弟によってプロペラ飛行機も発明されることとなる。
人間が “空” に進出する時代のはじまりだ。


欧米中心の世界観


こうした科学の発展は、当時の人々に「今後も世の中はもっともっと良くなるはずだ」という夢や希望を抱かせ、19世紀末は「ベル・エポック」とも呼ばれる“お気楽ムード”が欧米を支配する。
しかし、そんな“光”の裏では、当時の欧米世界では、欧米のみが近代化を達成した「文明世界」なんだとみなす傾向が強く、探検によって得られた知識にも人類を皮膚の色などの見た目で優劣をつける人種観や、歴史・伝統や自然環境を無視したヨーロッパ以外の民族を 野蛮で“劣った存在”と見る見方も少なくなかった。

また、スウェーデンのノーベルによるダイナマイトの発明は、もともとは鉱山開発のためだったものの、戦争でも使用されることとなり、戦争における死傷者数を増やすきっかけともなった。

反省したノーベルが、遺産を注ぎ込んで設立した基金をもとに、死後「ノーベル賞」が運営されるようになる。
しかし、“平和”の時代を願ったノーベルの思いとは裏腹に、世界は大変な方向へと進むことになってしまう。





このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊