5.2.3 スラヴ人と周辺諸民族の自立 世界史の教科書を最初から最後まで
地中海に突き出すバルカン半島のちょうど”付け根”にあたる部分には、カルパティア山脈というなだらかな山々が並ぶ。
このあたりを現住地とするスラヴ人という民族は、ゲルマン人と同じくインド=ヨーロッパ語族の人々。
農業や牧畜をして細々と暮らしていたのだが、周辺のゲルマン人たちが西ヨーロッパ各地に移住したことにより生まれた”空白エリア”に、6世紀になると移動を開始。
西ヨーロッパのローマ=カトリック教会と、東ヨーロッパの正教会の影響を受けつつ、国家を建設していった。
映像:正教会(ロシア正教会)の儀式
スラヴ人たちは、日本人にとっては「ちがいのわかりづらい」民族が多い。「どっかで聞いたことあるんだけどなあ」という感じの民族名も多いと思う(「東ヨーロッパの人たちの違いがわかりにくい」ということそれ自体に、実は「世界史」のヒントが隠されている)。
これを良い機会に、違いに注目してみよう。
東スラヴ人
東方面に進んでいった東スラヴ人には、
①北東ロシアのルーシ(ロシア人)
ロシアのプーチン大統領
②南ロシアのルーシ(ウクライナ人)などがいる。
ウクライナのゼレンスキー大統領
多くの日本人にとっては、ロシア人とウクライナ人の違いなんてほとんどわからないように見えるけれど、彼らにとっては大きな違いだ。
もともとノルマン人が北からやって来て、現ウクライナで建国した国がキエフ公国だったよね。彼らは住民の東スラヴ人と融合し、しだいに見分けがつかなくなっていった。
①南ロシアのルーシの建てたキエフ公国から、10世紀末のキエフ公ウラディミル1世(在位980~1015年)という名君が現れる。
彼はまわりの民族とたたかって領土を拡大し、最盛期を実現。
ビザンツ帝国との貿易による立国を目指し、ギリシア正教に改宗して、キエフ公国の国教に定めたよ。
日本が遣唐使を派遣して中国風の制度を導入したように、ウラディミル1世もこのときビザンツ帝国の組織をマネしたため、西ヨーロッパ世界とは違った特色が育っていったよ。
キエフ公国の首都であるキエフは、現在の②ウクライナの首都があるところ。当時の東スラヴ人の中心は現在の①ロシアではなく②ウクライナにあったことに注意しておこう。
しかし、13世紀になると各地の諸侯(キエフ公の"家来")が大土地を所有する領主として君臨し、キエフ公の言うことを聞かなくなってしまう。領主たちは領地の農民たちの移住を禁止し、「農奴」(のうど)として土地に縛りつけた。
こうして各地の諸侯勢力が、それぞれギリシア正教の教会の権威を利用しながら争う分裂時代の中で、キエフ公国の権威はどんどん低下。
13世紀にモンゴル人の将軍バトゥ率いる騎馬軍が侵入すると、キエフ公国はあっけなく服属。
モンゴル帝国が、カスピ海北部を都にして建てたキプチャク=ハン国により、キエフ公以下の諸侯は屈服。
ロシア地域はいくつもの小国家に分裂し、240年間もの間、統一して立ち向かう勢力は現れなかった。
この期間をロシアでは「タタール(モンゴル人)のくびき(軛)」という。
ロシアの歴史ものの映画の中では、しばしばモンゴル人が敵役・悪役として描かれるわけだ。
しかし15世紀になって、交易拠点として発展していた北東ロシアのモスクワを中心に、モスクワ大公国が急成長。
大公(たいこう)のイヴァン3世(在位1462~1505年)のときに、モスクワを中心とする東北ロシアにあった諸侯たちの国を統一。1480年にはよやくモンゴル支配から脱することに成功した。
イヴァン3世は、みずからの権威に箔をつけるため、1453年に滅んでいた東ローマ(ビザンツ)最後の皇帝の姪(めい)と結婚する。
これにより「ローマ帝国の血筋を受け継ぐ者」と名乗ろうとしたのだ。
のちの歴史家は、この政略結婚をもって「ローマを第一のローマ、コンスタンティノープルを第二のローマとすれば、モスクワは第三のローマだ」というふうに、モスクワ大公国の晴らしさを強調した。
そんな思惑からイヴァン3世は初めて「ツァーリ」という称号を用い、農民たちの移動を厳禁して農奴制を強化。
孫のイヴァン4世(雷帝、在位1533~84年)のときには強大な国家に発展する。
ツァーリというのは「カエサル」という意味。
ローマ皇帝の称していた称号のひとつだ。
イヴァン4世はモンゴル人の残存勢力を攻撃し、東のシベリア方面にも領土を広げていった。
こんなふうな経緯をたどって、①北東ロシアのルーシが現在の「ロシア人」の中心エリアとなっていく基礎が築かれていったわけだ。
②南ロシアのルーシである「ウクライナ人」は、しだいに①北東ロシアのルーシ(ロシア人)や、西スラヴ人のポーランド人に押され気味になっていく。
それがのちにウクライナ人たちの中に、「キエフは昔ルーシの中心地だったのに」というコンプレックスや不満として共有されることになるんだよ。
2つのタイプに分かれた南スラブ人
南のバルカン半島に進んでいったスラヴ人としては、
①セルビア人、
セルビアのブルナビッチ首相(2017年就任🏳️🌈)
②クロアティア人、
クロアティアのアンドレイ・プレンコビッチ首相(2016年就任)
③スロヴェニア人が代表だ。
スロヴェニアのマリヤン・シャレツ首相(2018年就任。芸人出身)
世界史の中では、残念ながら第一次世界大戦の勃発や1990年代のユーゴスラビア紛争といった不穏なイベントに関連して大きく取り扱われることが多い民族だ。
①セルビア人は南スラヴ人の中でも最大勢力。
東ローマ(ビザンツ)帝国に服属してギリシア正教を受け入れたけれど、12世紀に独立。14世紀前半にはバルカン半島北部を支配する強国に発展したよ。
②クロアティア人と③スロヴェニア人は、アドリア海沿岸の港を通してイタリア人たちと関わる機会が多かったから、ローマ=カトリック教会を受け入れた。
現在でも①セルビア人はキリル文字というロシアと同じ文字を使うのに対し、
②クロアティアと③スロヴェニアではラテン文字を用いる。
セルビア語とクロアティア語には、実はそんなに大きな違いはないにも関わらず、ちょうど東西キリスト教会の分かれ目に位置しているがゆえに、異なる特色を持つに至ったんだね。
これらの国は14世紀(今から600年ほど前)以降になると、トルコ系の騎馬遊牧民の建てた国であるオスマン帝国の支配下に置かれるようになる。これにより、現在でもこれらのエリアにはイスラーム教徒の方々も多数暮らしているんだよ。
西スラヴ人はカトリックを受容した
西に進んでいった西スラヴ人の多くは、ローマ=カトリック教会の信仰を受け入れた。
代表例は
①ポーランド人、
アンジェイ・ドゥダ大統領(2015年就任)
②チェコ人、
ミロシュ・ゼマン大統領(2013年就任)
③スロヴァキア人だ。
スロヴァキアのスザナ・チャプトヴァー大統領(2019年就任)
現在でもポーランド語、
チェコ語、
スロヴァキア語は、
スラヴ系の言葉だけれど、ラテン語のアルファベットを借用しているよ。
①ポーランド人は10世紀頃(今から1050年ほど前)に建国し、支配層を中心に「ポーランド人」という意識を強めていった。
1241年にはモンゴル人の襲来を受け、ワールシュタットの戦いで敗北を喫している。
14世紀前半になるとカジミェシュ(カシミール)大王という名君が出て繁栄した。
現在のポーランド南部にあるクラコフは、ヴィスワ川沿いの美しい街。旧市街も含めおすすめ観光スポットだ。
しかし、西方からドイツ人たちが支配エリアを広げようとしてくるのに悩まされ、1386年にはバルト海東岸のリトアニア人と同盟を組み、リトアニア王とポーランド王を、ヤゲウォ家(ヤゲロー家)のもとに「ひとつ」にさせる取り決めをした。これをリトアニア=ポーランド王国という。
バルト海周辺のみならず黒海にいたるまでの広い領土をおさえたことで、15世紀にはヨーロッパ有数の強国に成長していくことになるよ。
②チェコ人は10世紀にエルベ川上流でベーメン王国(ラテン語ではボヘミア)を建国。先行するモラヴィア人や③スロヴァキア人を支配した。
都のプラハ(英語ではプラーグ)には美しく壮大なローマ=カトリックの聖堂や王宮などが建造された。
しかしエルベ川下流からのドイツ人の進出を止めることはできず、
11世紀には「神聖ローマ帝国」のエリアに組み込まれてしまうことになった。
その他の民族
スラヴ人の広まったエリアには、スラヴ系以外の民族もいるよ。
トルコ系の騎馬遊牧民のブルガール人は、7世紀にバルカン半島の北部で建国(第一次ブルガリア帝国)。
その後、住民のスラヴ人の文化を受け入れ、ギリシア正教も受け入れたことで見分けがつかなくなる。ビザンツ帝国の攻撃を受けて合併されてしまうけど、12世紀に再び独立(第二次ブルガリア帝国)。
しかし14世紀にはトルコ系のオスマン帝国に併合されてしまった。
マジャール人は黒海北岸からドナウ川中流のパンノニア平原に移動して、10世紀にハンガリー王国を建国するよ。
彼らは西スラヴ人たちと同じようにローマ=カトリックを受け入れた。
15世紀には首都ブダとペストが、ドナウ川の水運によって繁栄するけれど、16世紀にはやはりトルコ系のオスマン帝国に大部分を併合されてしまう。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊