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デカルトの方法的懐疑は人生を豊かにするか 〜「我思う故に我あり」の真意とその批判的解説〜

 難解なタイトルで始めて、どこまで簡単な結論に落とし込めるか挑戦します。

 「我思う、ゆえに我あり」

 この言葉はデカルトを知らなくても耳にすることがある有名なフレーズです。わかるような、わからないような、当たり前のような。

 端的に言えば「真理」に到達するために片っ端から全て疑ってかかってみたのがデカルトという人です。あれも違う、これも違う。
 少しでも「疑問」があれば「真理」ではない。白でなければ真理でない。少しでもグレーが混ざれば疑わしいと、そういう考え方です。

 そうすると彼は、なにも信じられないという状態に陥ります。神さえも疑わしい。当然、自分も信じられない。

 「自分も存在しないのでは?」

 なんてことまで考え始めてしまいます。厨二病どころではありませんね。

 そうして到達したのが「自分を含めた世界の全てが偽物だとしても、それを考えている間、自分の存在は疑いようがない」というギリギリの思考でした。

 これを否定されたら、きっと彼は生きていくことができなかったでしょう。極限状態で縋る思いの中に到達したのが、「我思う、ゆえに我あり」だったのです。

 我○○、ゆえに我あり

 ○○の部分に自分の好きなことをいれてアイデンティティの確認や自己紹介のようにしている人もいますが、浅い理解に基づいた恥ずかしい間違いですので、見る人が見れば苦笑します。

 ○○の部分は「思う」に類する言葉以外にはあり得ないのです。デカルトは、この疑いようもない事実を起点として、「真理」という形而上学的な命題にアプローチしようとしました。この言葉は終着点ではなくて、出発点ということになります。これが方法的懐疑の真髄です。

 しかし「方法序説」を読むと、なんだかすごく生きにくそうだな、という感想を抱きます。
 方法的懐疑は近代哲学および科学に大きな影響を与え、その発展に貢献しましたが、デカルトその人は苦悩と共に生きていたのではないかと想像します。日常生活を方法的懐疑しながら生きていたら、精神が参ってしまいそうです。

 なぜ、「信じる」と「疑う」の2択なのか。

 「信じる」という概念を0か1で考えるからおかしなことになるのかもしれないと私は思います。完全に信じられなければ疑う対象だなんて、統計学を基礎とした科学でさえ成り立ちません。最もエビデンスレベルの高いとされるメタアナリシスという手法であっても、その結果の信頼度は100%ではありません。疑いの目を残しながらも、確からしい橋を渡っていくのが現代科学です。

 0と1の間を生きることは、自由への道です。

 0.8でもいい。余裕があるくらいが丁度良い。信じながら疑うもよし。疑いながら信じるもよし。
 疑い始めるとキリがないということを、デカルトは私たちに教えてくれました。

 まとめます。

 「疑うばかりじゃ疲れちゃう。
        半信半疑で良いじゃない。」


 この記事の内容もそうです。半信半疑で聞き流してみると、スッと心が軽くなります。

 拙文に最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました。願わくは、貴方が疑念の迷路から抜け出して、日常の美しさに包まれますように。


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