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「考える」と「考えられる」は決定的に違う。 〜表現に配慮し発言に説得力を持たせる手法〜

 医学生の頃、ある基礎研究系の指導医に、大変厳しく叱られたことがあります。

 実験の結果をまとめてディスカッションする時間のことでした。口頭試問に対して自分の考えを述べていきます。「この実験結果からこういうことが考えられる」とか「それはこういうことだと思われます」とか。無意識にそんな言葉遣いをしていました。

 「君の物言いが気に入らない。」

 一生懸命に話していた私を遮り、指導医は私を睨みました。

 「それは君が『考えている』ことなのか!!客観的に疑いようもなく『考えられる』ことなのか!!!」

 突然の大声に、教室の空気が凍りました。

 「あ、やっちまった」という顔をした指導医は深呼吸をひとつしてからトーンダウンして話を続けます。実験結果に対する私の考察内容が、いくつかの決定的な間違いを含んでいたこと、そして私の「物言い」には、致命的な欠陥があることを優しく教えてくれました。
 曰く、「実験結果で得られた事実」「事実から導かれる確からしい情報、論理的に思考すると多くの人が同じ結論に至る答え(考えられること)」「確からしさに揺らぎはあるが自分が考えること」「確からしさは低いが自分の思うこと」「真偽は不明だが多くの人が感じるであろうこと(思われる)」の使い分けがゴチャゴチャだと。それなのに発言の仕方があたかも正しいことのように聞こえて、ひどく不快だというのです。それは間違っていることを信じ込ませるような洗脳に近い手法だ、と。これにはショックを受けました。

 私は無意識に自分の考えに説得力をもたせたいという思いから「考えられる」「思われる」「です(断言)」を多用していたようでした。指摘されると思い至ります。たしかにそうだったかもしれない、と。

 指摘に納得した私はすぐに「申し訳ありません。私の考え方と言葉の使い方に誤りがありました。直します。」と謝罪しました。指導医はニッと笑って「頑張れよ。君は医者になるんだからな。」と激励してくれました。

 それから私は、それらの言葉の使い分けに細心の注意を払うようになりました。気をつけるのは言葉になる前の「思考」です。思考は言葉になるからです。独善的にならないように、果たして自分が言葉にしようとしていることは「事実」なのか「推測」なのか、「考える」のか「考えられる」のか。

 あのとき指導いただけなければ、自分では気付くことはできなかったと思います。誤りを抱えながら突き進んでいって、そのまま独善的で信用ならない人間の完成です。危ないところでした。深く感謝申し上げます。


 自信満々に「事実らしいこと」を並べ、それを根拠に「○○は☆☆と考えられます!」「××は△△です!」と断言する人がいます。魅惑的なキャッチコピーを振りかざすこともあるでしょう。

 人間の心理として、特にその人が「成功者」だったり「権力者」だったりすると、ついつい引っ張られてしまうものですが、それは落とし穴かもしれません。

 断言ばかりしている人は信用できないと、私は断言します。

 「事実」なのか「推測」なのか、
 「思う」のか「思われる」のか、
 「考える」のか「考えられる」のか、

 それは厳密に区別される必要があります。

 私の書く全ての記事は、これらの言葉の使い分けを徹底しています。

 勿論、キャッチーなタイトルをつけることもありますが、記事内容は誤解のないように、できる限り情報の質を高め、言葉を正確に用いるように努めています。
 もし貴方からひと匙でも共感いただけるとしたら、そういう地味な工夫も効を奏しているのかもしれないと、大変嬉しく思います。

 さて、今貴方は何を思い、どう考えますか?

 拙文に最後までお付き合い頂き誠に有難うございました。願わくは、貴方の「言葉」がさらにチカラを増して、多くの人に響きますように。


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