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あまり使わないようにしている言葉

私は小説を書くのが好きなくらいですから、
言葉へのこだわりが、ちょっと普通でないところがあります。

例えば、私があまり使わないようにしている言葉。
でも、それを言うと、
ものすごく冷酷非情な人間に思われる可能性があるので、
あまり声を大にしては言えないのですが……笑

「愛」

とにもかくにも、この言葉を人は使いたがる。
まるで、水戸黄門の印籠のように。

「愛の人だから」
「与える愛がすごい」
「愛に溢れてる」

などなど

そう言われると、水戸黄門の印籠を出された人々が、
「ははー」と頭を垂れるように、賛美の言葉が溢れます。
社会的に、絶対的な「善」とされているもの。

使っている人たちは、素直な人で、悪気はないとは思うのです。
別に「愛」という言葉を使う人を批判したいわけでもありません。
でも、そこには危険も潜んでいることを考えてもらいたいと思うのです。

「愛」という言葉で指し示されているものは、一体何か?
そのことを考えている人は、一体どれほどいるのか、と。

世の中には、夜中に家の外に子供を放り出すことが、
「愛」だと言う人もいる。
その人を殴ったのは、
「愛」ゆえにだという人もいる。
自分の欲望を押し付けることを、
「愛」ある行為だと言う人もいる。

それがどんなにひどいことだったとしても、
「愛」という言葉を使われると、
まるでマジックワードで煙に巻かれたように、
何も反論ができなくなる。
だって、それは社会的には、絶対的な「善」だから。

「愛の人」だと言われるだけで、
ものすごく良い人になってしまう。
裏で、どんなに極悪非道なことをしていたとしても。

その言葉を使うことに、何の意味がありますか? と、私は思う。

例えば、道端に捨てられている猫に、ご飯をあげること。
前を歩いている人が落とした切符を拾ってあげること。
隣の人に傘を差し出すこと。

そういうことの方が、よっぽど私の心には、明かりを灯してくれる。
たとえ、「愛」という言葉が、そこに全くなかったとしても。

大切なのは、人と人の「あいだ」に、
人とモノとの「あいだ」に存在しているものだと思うから。

そして、その「あいだ」にあるものを、
ありきたりの、簡単な言葉で表現した途端、
白々しくなってしまう。

本当に大切なのは、
言葉を超えるものを表現できる言葉。
だから、私は、いろんな形で、いろんな言葉で、
それを小説にすることを選んだのかもしれない、と思う。

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