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学校の先生は、裁判官なのか?

 私は平均的な人よりも、ずいぶんと長い間、「学校」という場所に所属してきた。小学校、中学校は、ほとんどの人が行くと思うけれど、私は、それから高校、大学に加えて、大学院にまで行って居座ってしまったため、大学院に10年近く在籍していたことになる。今現在も、自分が教える側として、引き続き、学校に関わっている。

 その上、私の家族には、これまた平均的な人よりも、ものすごくたくさんの先生たちがいる。幼稚園の先生、小学校の先生、高校の先生など、数え上げれば、8人くらいはいる。そういう人たちが付き合う人にも先生が多いから、私の周囲には、ものすごくたくさんの先生がいることになる。

 というわけで、私は、教師のダメなところや嫌な部分を含め、その舞台裏をこれでもかというくらいに見てきたので、「学校」や「先生」の実態に関して、ものすごく詳しくなっていると思う。先生については、表の顔も裏の顔も知り尽くしたのではないかと思えるほど。笑 

 そうして、「学校」や「先生」の実態に詳しくなってしまった私は、どうしても「学校」や「先生」に対して、批判的な目を向けずにはいられない。学校や先生の問題として、私が思っていることの1つとしてあるのは、「学校の先生は、裁判官のようになってしまっているのではないか?」ということ。

 教室内での、先生と生徒のやりとりの分析から、その構造として分かっていることが1つある。教室では、「I-R-E構造」と呼ばれる形式で、やりとりがなされているということ。IはInitiation(誘導)、RはResponse(応答)、Eは Evaluation(評価)。例えば、次のようなやりとりを考えてみる。

先生:1足す1は何ですか?
生徒:2です。
先生:はい、そうですね。よくできました。

 教室内でなされる典型的な会話だけれど、以上のやりとりでは、先生が「1たす1は何ですか?」という質問をし(Initiation)、生徒が「2です」と応答し(Response)、最後に先生が「はい、そうですね。よくできました」と評価する(Evaluation)形式で会話がなされている。

 この会話の最初の「質問」について、ちょっと考えてみる。

 普通、「質問」というのは、「答えが分からない人が、答えが分かっている人に聞く」時にされるものである。目的地への行き方が分からない人が、地図を見ながら、「う〜ん」とうなって、道行く人に「ここに行くにはどう行けばよいんでしょうか?」と聞いて、教えてもらう。これが日常生活でなされる普通の質問。

 でも、教室内では、さっきのやりとりにあるように、「答えが分かっている人(先生)が、答えが分からない人(生徒)に聞く」ために、質問がなされる、という、日常生活ではおよそ考えられない、異常事態が起きている。目的地への行き方が分かっている人が、道行く人に、地図を見せながら、「ここへ行くにはどう行けばよいんでしょうか?」と聞いて、「〜して行けばよいですよ」と教えてもらった後、「はい、そうですね。よくできました」と言っているようなものである。

 このことから分かるように、教室内での、先生と生徒のやりとりは、もしそれを日常生活でしたならば、とても異常なものになってしまう類の、特殊なものなのだ。このやりとりの異常さは、最後の「はい、そうですね。よくできました」の部分、つまり、「評価」の部分にある。

 質問した人が、その答えを聞いた後で評価する、という会話は、教室などでの「教える」文脈以外では、ほぼなされない。それは、教室内では、先生が生徒を「評価する」ことを目的地として、やりとりがなされているから。

 そして、その評価は「成績」として、生徒に返ってくる。これは、裁判官がしていることに限りなく近いものになるのではないかと思う。裁判官は、裁判の中で、被告人が質問に答えた内容を吟味して、判決を出す。裁判の内容から、懲役何年、執行猶予などの刑が決定されることにより、被告人の未来が決まる。

 先生も、教室内での生徒の答えを吟味して、成績をつける。その成績によって、その後にどの学校に進むか、あるいは、どのクラスに振り分けられるか、などの生徒の進路が決まっていく。裁判官も先生も、人を評価し、その人の未来の決定権を握っている存在だということ。

 その人が自分の未来の決定権を握っていると思えば、その人に対して、自由に発言できなくなる。間違った発言をすれば、自分の評価が下がる。そうなれば、自分の未来はお先真っ暗。先生である私に対して、「どうやったら評価が下がらずに、単位がもらえるか?」ということがまず頭の中にあるのだろうなあ、と思った回数は、数知れない。

 だから、私は、教えている時には、極力、最後の評価(Evaluation)の部分をぼやかすようにしている。生徒さんの理解を確かめなければいけないから、質問はするものの、合っている時には、「いいですね」くらいは言うけれど、間違っている時には、「うん」「なるほど」とだけ言ったり、「おしい」や「だいたい良いですね」などと言って、はぐらかす。

 そうして、まず解説をしていき、説明の最後の方で答えを言う。そうすれば、自分の答えと評価の間がずいぶんと空くので、自分の答えが評価されているという意識が、生徒さんの側でだいぶ薄くなる。そうすると、生徒さんたちの発言も多くなってくる。

 そういう授業が、私は、一番楽しい。だから、成績なんてなくても良いのではないかと思っている。私は、人を裁く、裁判官にはなりたくないから。

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