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ACT.111『疲労途上』

河口湖線とハエニッパ

 埼京線から譲渡され、首都圏最後の205系として尽力した205系ハエ28編成は、この富士急行に転職して富士急ハイランドの人気アトラクション『きかんしゃトーマスランド』のラッピング装飾を身に纏って活躍している。
 訪問した際にはその装飾をじっくり見る事は出来ず、ただただ混雑の中に紛れていたので撮影や記録に浸る事は出来なかった。
 やっとの思いにて富士急ハイランド方面への河口湖行きに乗車する。コレにて富士急行線は完全乗車達成…になるのだが、トーマスランド号に乗車した瞬間一気に訪日の外国人で一杯になっていた。
 空き席を探すにも、家族やカップル利用などで座席の空席は見えようにも一瞬しか覗かない。
 中にはスーツケースに阻まれ、着席出来ないような状態にもなっていた。
 少しだけ隙間を見つけた。ここなら行けそうか…と思い、座席に腰掛けようとする。
 欧米人の2人組のスーツケース付近に着席したのだが、その際には端末の翻訳機能を使用して
「座席を少しだけ詰めてくれませんか?」
と質問してようやく着席できた。
 そして少しすると、近くの欧米人から
「excuse me?」
と質問されたのだが何だったのか今では覚えていない。
 今更になって思うのだが、
「この列車で富士山に行けますか?」
だったのだろうか…
 そんな挟まれた状態で河口湖までの最後の道を行く。
 外国人の中に挟まれてしまうと、日本人とは何とも小さい民族なのだろうかと思ってしまう。
 そして到着した河口湖の写真が冒頭、この記録である。
 しかし楽観は早かった。

 少しだけ。
 この駅の周辺には温泉があるらしい。
 温泉むすめの看板があると、最近では
「あぁ温泉地なのだな」
とすぐわかるようになってしまった。
 名前は『河口湖多佳美』と言うそうで、その設定は富士山に因んだのか
『意識は高く、妥協を一切許さずイチバンに拘る温泉むすめ』
なのだそうだ。
 駅の中に設置されているとだけあって、鉄道の制服が凛々しく似合っている。
 この看板を記念撮影している外国人観光客も多かった。いや、日本人をこの何分かで見かけた記憶がない。
 本当に自分は日本に居るのだろうか…

喧騒の中にて

 河口湖に到着すると、この光景が真っ先に目に入ってくる。
 実際は逆光で写真の映り込みに関しては全く良くないのだが、富士山の映えには一切関係がないのだろうか。記念撮影として、こちらも多くの観光客が撮影していた。
 ホームの通路の中にこの富士山観察のスポットが混ざっているので動線的には非常に良くない。この富士山を巡って撮影の観光客が大挙し、かなり支えている状態であった。
 そして、極め付け。この状況での河口湖駅での下車客がこちら。

 民族的な大移動があったのかと思う程の大混雑であった。
 正直な話、京都で日々の暮らしをしていると少しだけは慣れてくるのだがどうも富士急行の路線全体で感じる混雑は相当に異常なものである。
 沿線の全域に、全ての観光地に滞在しているのでその数と言えばキリがない。
 そして追加で気になるのだが、彼ら外国人たちはどのようにして日本の観光地や日本の情報を仕入れて観光しているのだろうか。そうした疑問の浮上も束の間、改札に向かって移動していく。
 しかしこの状態では自分が乗車してきた分の切符も確認してもらえるのだろうかという一抹の不安さえ感じる。
 なんとか出る事には成功したのだが。

 改札に向かっての移動中に撮影した『富士山ビュー特急』の正面の顔。
 構内踏切に乗客たちが滞留しているその隙を狙って撮影した。
 この角度から見上げてみると、トレインマーク含めて完全にJR東海の371系がそのまま衣替えをして活躍しているようである。
 このラインから見る曲線にマークの光り方など、全てがもうあの頃に図鑑で見た特急あさぎりなのだ。
 この日何度その気持ちに回帰したか分からないくらいではあるのだが。

ハプニング?

 既に改札は出たが、写真は改札内で撮影したものを継続して掲載しておこう。
 さて、一旦外に出て何かをしようと思った。
 この暑い気候だったので、フリー切符に書かれている項目に便乗してみようと思ったのだ。
 フリー切符には、
『ソフトクリーム100円引き』
と記されている。河口湖駅構内のレストランで適用されるようで、気候も相まって今回の適用に便乗した。
「あぁ…コレかなぁ…」
改札を出て、駅構内を進んでいく。すると、土産物屋とレストランのような施設が併設された場所に到着した。
 カウンター後方にはソフトクリームの抽出機械がある。きっとこの場所だろう。
 カウンターに向かい、
「すいません、富士山ソフト1つ…」
と注文をコール。しかし、ここでハプニングが発生した。
「あれ?あれ…?」
注文を受けた店員が機械を前に格闘している。
「ん?おかしいな…?」
機械を前にどうした苦戦をしているのか…と思い見てみると、自分の注文した富士山ソフトが抽出されないハプニングが起きていたのだ。
 注文を受けた店員が1人で格闘しても全然埒が開かないので、もう1人が厨房から呼ばれる。
「〇〇さん、出ないんだけど…」
次第に重い空気になっていく。
「あかんな…もしかして俺あかん事した…?」
悪戦苦闘を見ていると萎縮してしまう。
 そして格闘からしばらく。
「申し訳ありません、バニラならすぐお作りできるのですが…」
「あっ、はい(萎縮)、じ、じゃあバニラで…」
こうしてなんとか100円引きのソフトクリームを手にする事が出来たのであった。
 富士山ソフトもバニラも、変わらずサービスが適用されたのは完全に安心するところだった。

 こうして、無事にソフトクリームを手にする事ができた。
 レストラン奥の場所に縮んで、ソフトクリームを食する。
 全身の力が、ソフトクリームの温度によって丁寧に絆されていくのがよく分かった。ここまで3月の終わり(訪問当時)なのにも関わらず、太陽燦々の灼熱だと本当にアイス系の1つでも食さないと持たないところであった。
 周囲を見渡せば完全に外国人だらけで、日本人の数の方が圧倒的に少ないくらいだ。
 ソフトクリームを食べ終えて駅外に出る。
 駅外のロータリーからは富士急行に乗り入れるJRの特急/富士回遊と同様に新宿・東京方面に向かう高速バスが停車し荷物ラックを開け、運転士が必死に荷物を載せている最中だったのだがコチラも多くの外国人で盛況であった。
 何度も記すが、この日マトモに日本人を見たのは恐らく富士急職員だけなのではという程に乗客で日本人は見なかった。
 あまりの大混雑で疲労困憊し、駅舎の写真を撮影するもの諦めた。
 人の混雑も…だが、それ以上に多くの人の出入りで駅の記録はマトモに出来ないと思った。次回に…といういつもの気持ちにはなるが、その次回すら一体いつになるのだろうと途方に暮れるだけである。
 富士急行の沿線はあまりにも人だらけだ。

見届けた復活の存在

 富士急行線の河口湖駅前には、1両の電車が保存されている。
 電車は木造の車両で、恐らく明治から大正までの頃の電車である。背景には富士山も聳えており、正しくこの富士急行線を見守り見つめて来たような存在であろう。
 この車両を、よく観察してみよう。

 車両には車体番号の『1』が大きく綺麗に刻み込まれている。
 前面は3枚窓で広々とした間取りに収まっており、前照灯は人間で言う臍の部分…真ん中に収まっているような具合である。
 連結器は自動連結器を採用しているようだ。
 日影でその姿が見えづらいが、連結器下の辺りには車両同士を併結して運用する為の配線類が多く顔を覗かせている。
 縦で撮影しただけでも、多くの事が分かった。

 車両は3枚窓の前面から始まり、側面は2枚扉で2段窓が連続している。
 前後に運転台が装着されている事を考えると、この車両は単行運転を想定した構造なのかもしれない。
 撮影したこの日は駅前にキッチンカーが入り、撮影は困難にも頑張って映す感じとなってしまった。
 そして逆光気味になってしまったのも少しだけ頭を悩ませる点である。
 自分が車両を細かく見ている間に、駅周辺を訪問した家族連れの子どもたちが電車の周辺にやってきた。気配に気付いてやって来る感じがどうも可愛かった。

 車両の反対側に出る。
 この側にはパンタグラフが搭載されている。
 明治・大正期の電車といえばポール集電やビューゲルなのかと思っていたところ、まさかの折り畳まれたパンタグラフが顔を覗かせたのでつい驚いてしまった。
 こちらも変わらず、前照灯は臍に。そして配線類が顔を覗かせていた。
 この電車を少しづつ、断片として見てきたがこの車両は富士急行にとって『創業期の車両』というだけではなく大きな意味も持っている。
 その意味について、記していこう。

 この茶色い1両の電車は『モ1号』という電車だ。
 富士急行の前身会社である『富士山麓電気鉄道』の時代。昭和4年に誕生し、登山電車として急勾配への対策や登坂性能に重きを置いた車両として登場した。
 車両は昭和25年の頃に富士急行を離れて長野県の上田電鉄へ譲渡される。
 上田電鉄で活躍を終えたのは昭和58年の事となる。上田電鉄では主に支線の真田傍陽線で活躍していた。(※真田傍陽線は昭和47年に廃止される)

 上田電鉄で活躍を終了した後、この車両に奇跡が訪れる。
 富士急行の会社創業60周年記念事業として里帰りを果たすのであった。
 この創業60周年記念事業として、モハ1形は上田電鉄で授かった形式から再び富士急行のモ1形となるべく再びこの茶色い姿に復活し、河口湖で留置された後に駅前に保存され、今日を迎えた。

 モ1形が里帰りしてもう既に40年近くが経過する。
 そして、富士急行には大きな変化があった。
 令和4年より、モ1形が在籍していた当初の社名である『富士山麓電気鉄道』が復活したのだ。
 これによって富士急行線の鉄道事業が『富士山麓電気鉄道』に継承され、モ1形は晴れて完全な里帰りを果たしたのである。
 懐かしい社名の中、現在モ1形はどのような気持ちで駅前に佇んでいるのだろうか。
 写真はJRの新宿方面に帰ろうとしている特急/富士回遊。
「なんでこんな記念の写真なのに背後に映る車両はJRなんだよ」
というツッコミはお控えいただいて。

失職者

 富士急行の車両たちは、この河口湖にある駅の留置線のような場所で1日を過ごしている。
 車両運行の要のような場所で、その日の仕事がない車両や朝の仕事や日中の仕事を終えた車両は、この場所で待機するのだ。
 しかし、この場所には依然として仕事を『剥奪』されたような車両がいる。
 その車両がこの電車だ。
 富士山をバックに、誇らしげに停車しているがこの車両。失職している状態なのである…

 車両を接近して撮影してみよう。
 車両は現在主力の205系メイクの電車ではなく、かつて京王で活躍した5000形を基調にした車両である。
 台車や雪かきのスノープラウなどには汚れ、煤1つなく完璧に美しい状態を保持していると言っても良いだろうか。
 ここまで美しい姿を、美しい状態をしている電車がどうして失職しているのだろう。
 しかしその情報は不明なままここまで経過し、ずっとこの河口湖駅の側線で留置されているままだ。
 既に富士急行では普通列車の車両に関して世代交代が進行しており、京王5000形から改番して譲渡した1200系は既に大半が前線を退いている。
 かつては大手私鉄通勤電車初の冷房搭載にて名を馳せた電車も、ここが潮時なのかもしれない。

 河口湖の側線にて留置されている車両は、駅から少し移動した先の踏切を移動すると見る事が可能である。
 富士登山電車も、現在はこうして観察する形でしかその姿を見る事が出来ない。
 逆光気味の撮影には向かない環境ではあったが、ここで撮影しておかねば…との記録心の後押しで撮影をした。
 余談となるが、自分の伯父と伯母が富士急行に旅行で乗車した際にはこの『富士登山電車』に乗車し、正月に出会った際にはその時の思い出話を聞かせてくれた。
 そんな家族親戚と少しだけ繋がっている富士登山電車。復活の時は来るのだろうか。
 ちなみに最後になるが、富士登山電車が纏っているこの茶色系の色は先ほど駅前で見た創業期の電車、『モ1形』に因んでいる。

緊急事態への備え

 しばらく富士登山電車を車庫裏から撮影していると、踏切が鳴動した。列車が向かってくるようだ。
 カメラを構えていると…カラフルなNARUTO電車が入線してきた。大月からの上り坂もここで終了。ようやく完走し、この河口湖で束の間の休息となる。

 その後、NARUTO電車は駅に停車し入換前のJR直通特急である富士回遊と並んだ。
 互いにJRの感覚が抜けない(E353はJRの車両である)が、205系と中央線特急が共演した事は何度かあるのだろうか。
 あったとしても八王子の八高線くらいだろうが…
 さて、そんな富士急行に転職してきた205系電車。6000系として改称され、日々を今日まで活躍しているが彼らには緊急事態となった時の車両が用意されている。その車両も、富士登山電車の周辺に留置されており、静かにその時を待っている(あまり仕事があっても嬉しい車両ではないが)。

 それがこの車両だ。
 205系の中間車。
 この車両は車両の『部品取り用』として譲渡された際に追加で確保した車両で、現代に生産されていない電車である旧国鉄時代の通勤電車である205系…の命を繋ぎ止める存在として河口湖で佇んでいるのだ。
 現代も生産が継続している近代的な電車であれば、追加生産・追加発注を車両メーカーに依頼して製造し、その不足分。車両故障分を追加で生産が可能である。
 しかしこうした既に製造を終えている電車。205系の場合では数十年に亘って形式・車両の生産をしていない。そうした電車の場合は鉄道模型のようにして『部品確保・部品供給』となるドナーの車両を確保せねばならない。
 この車両はそうした不測の事態に備えて待機しているのだ。
 ちなみに。
 最後の溢れ話。
 部品確保用の205系の後方に、京王5000形塗装の1200系が停車している。
 折角なら見える位置から撮影したかったが、フレームイン程度になってしまった。

 少しだけ詳細にこの部品取り用の205系を見てみよう。
 この車両は富士急行に譲渡された205系の中で、唯一の6000系として改番されていない純然たる205系である。
 田の字の形状をした窓枠。『千ケヨ』の所属表記は、この車両が205系として現在も魂を燃やしている事を証明している。
 車両に関しては、この写真内でも分かるように元は京葉線で活躍した車両である。
 京葉線の205系という存在であるが、自分の中では久しぶりの再会となった。
 恐らく、小学生の時期に妹のディズニーランドに行きたいという希望を叶える為に京葉線に乗車した時以来だったので、もう彼此10年近くは経過している。
 その際の京葉線は205系・201系だらけだったので現在もなお鉄道ファンとしての脳裏に刻まれている。

 車両自体は中間車なので全然ファンではない限り注目する点はないのだが、撮影していると幾つか205系の『らしさ』
 置いて行かれた車両の『タイムトリップ』のようなものを感じる。
 この205系として6000系に混じる事のなかった京葉線姿の車両は、大月から河口湖まで懸命に登山の仕事に就く仲間を支える為。留置線で待機している。
 車両番号は剥がれかけではあるが、その中には『モハ205-10』の表記が存在している。この車両が205系として現在・今日まで生き延びた証拠である。
 彼らが本線に戻る事は絶対にないだろうが、彼らが居るからこそこの路線の安全は保たれ。富士急行を新天地にして活躍する6000系たちは安心して活躍できるのだ。

6000系記録(2)

 河口湖から駅を出て、少しだけ駅の外を散歩した。
 河口湖を出てしばらく、富士急行の列車は山間の建物を縫うようにして走行する。そんな縫うようにして走る途上で列車を記録した。
 この時点では足が相当に疲弊しており、疲労がかなり充填されている状態であった。少しだけ思い切って歩く。
 駅を出て少しした先に広がる線路脇の住宅地を走行する列車を撮影する事にした。
 但しこの先は道が狭く、自動車1台が走行するだけでもやっとの場所である。
 そんな場所だが、自動車はお構いなく通過しバイクも時たまやってくる。そして人通りもあるものだから、列車の来ない時間はひょいと足を上げて屈んでいるばかりだった。
 しばらくして、踏切が鳴動する。
 やってきたのは、大月に向かう列車だ。編成で抑えるには無理があったので、大月側は住宅を混ぜて撮影した。
 そのまま列車は自分の撮影していた小さな踏切を掠めて去り、大月へと富士山を下山していった。

 こちらの方が本命になるだろうか。
 河口湖まで、残りわずかな道を走行する6000系だ。
 この車両は田野倉から乗車した時以来のマッターホルン車両である。この途上でようやく再会した。
 自分の中ではこの旅で乗車した中でのお気に入り車両だったので、記録を残せた事は素直に嬉しい。
 205系時代には考えられなかった常識に囚われない車両塗装は、この車両を見ていて非常に面白いものである。
 この6000系マッターホルン号を撮影した時点で引き上げた。これ以上は光線条件が保たないと思い、河口湖の駅まで歩いて引き返したのであった。

下山

 一応、富士急行線を再び乗車して下山する事にしよう。
 大月まで普通列車に乗車して引き返す。
 外国人だらけでのんびりしている暇もなく、こうした断片的な写真で非常に申し訳ないのだが河口湖の駅構内には
『もいちくんの豆知識』
と創業当時の電車がキャラクターに扮して駅の中に混ざっている『廃レールの柱』を宣伝していた。
 もう少し落ち着いた時期に訪問して、この謎に関しては検証したいと思う。
 現在は混雑が激しすぎてそれどころではない。
 辟易しつつも、河口湖を去る事にしたのであった。

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