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ACT.69『夕闇を跨いで』

継承された花

 北海道の県花として、現在では『はまなす』は多くの人々に認知されている。
 JR北海道でも、昭和63年以降にそれまでの青函連絡船の廃止に伴う青函トンネルの開通。そして深夜の移動手段の代替手段として寝台急行・『はまなす』を昭和63年以降に札幌から青森まで運転した。寝台車と座席車を併結して走行する姿とその走りは、多くの鉄道ファン・旅人に愛され平成28年の北海道新幹線開業までその使命を果たした。
 現在は北海道の県花としての姿はリゾート設備を展開したキハ261系の特別編成に継承され、今日のJR北海道を支える存在になっている。
 今回の宗谷旅で。そして最北からの出戻りには良い乗車機会となったのだった。何回も連載中に記していく事になってしまうのだが、ダ・カーポが昭和の歌謡史に燦然と残した楽曲・『宗谷岬』の歌い出しにも『はまなす』は登場し最北の情景を彩っている。有る意味、運命のような存在だったのかもしれない。乗車が叶って非常に嬉しかったのだった。

特殊な自由席での時間

 この編成の大半を構成しているのは、前回の記事でも掲載したようにカラフルな指定席車両たちである。
 しかし、フリースペースに増結されている車両が1両だけこの編成内には存在し、この車両は乗車券+特急券だけでも自由席車両として終点まで乗車可能になっている。車窓を向き。そして団欒と寛いで目的地まで会話を弾ませられるような車内空間になっており、さながらボックス座席に関しては国鉄急行のような趣を出していた。
 稚内を発車し、南稚内・抜海…と少しづつ最北から遠ざかり列車は宗谷本線を上って走り出す。キハ261系のポテンシャルもここから発揮だ。
  途中、車窓を眺めると雄大な自然美が岩場の隙間から顔を覗かせていた。稚内に向かうまでの間に、
「撮っておけば良かったなぁ…」
と思う情景を、乗客越しでありながら何とか撮影できた。その間にも幾つかあったのだが、撮影に関してはというのか車窓への記録は中途半端に終了してしまった。
 宗谷岬では気持ち良いに近いほどの晴れだったのに、列車に乗車しいざ旭川に向かおうとすると、再び曇りの空がちらつくようになった。いずれにせよ行き届かない…というのか、巡り合わせの悪い天気であった。

 車窓を向いて乗車する側の座席はこのように仕立てられている。観光列車形の列車にありがちな座席の配置だが、関西でも阪急7000系『京とれいん雅洛』のように。叡電デオ900形『きらら』のように、車窓を向いて着席する座席に。特別な仕様の座席に普段着の状態で着席が可能なのは非常に嬉しい配慮である。列車は秘境駅を掠め、豊富へ向かって走り駆け抜けるのであった。
 と、この座席。1人で着席してしまうとどうも肩身の狭い思いをしてしまうのである。京都から身1つカバンと共に、学生服で旅をしている自分には勿体なくもあり、何か上等すぎるサービスなのであった。折角1人でこんな素晴らしい座席に座っているのも勿体無い状態にあるので、隣の乗客と話をしてみよう。

※掲載許可を頂いています。
本当に稚内から道内某所までの時間(ネタバレに関わるので某所表記)、ありがとうございました!!

意外な出会い
 隣に座っている乗客と、会話をして旭川までの時間を越す事にした。
 と。隣に座っている乗客の乗車券が非常に意外なものであった。
「僕、この切符で旅してるんです。」
そう言われて目の前に登場したのは、補充券と呼ばれる紙の束で構成された乗車券であった。
「コレって最長片道切符ですか?」
「はい、今から新大村まで…」
「すごい…はじめて現物見ました。写真いいですか?」
で、この画像の内容になる。
 左の切符が補充券と呼ばれる形で発行された最長片道切符であり、右の道内フリーが今回自分の利用する乗車券だ。切符には道内各地の駅で押印された下車印が残されている。最北・稚内を増やして現在は再び道東への旅路に向かうところだ。

※最長片道切符の旅。それは稚内から遠く九州の肥前山口(現・江北)を目指す旅路だったのだが、長崎新幹線の開業も手伝って新大村までの更に壮大な長旅になったのである。著名人でも、女子鉄モデル・伊藤桃氏やYouTuber・スーツ氏が実際に挑戦し成功を収めている。

 補充券とは一体…にもなるのだが、この乗車券はどうした条件で発行されているのか。
 この乗車券は通常では考えられないような経路が組まれている。中では
「そんな場所通るんか!?」
のように驚く経路もあり、乗車券としての経由地に通り道も多様な乗車券なのである。
 詳細な経由路線は省くのだが、(多くて紹介しきれないので)多数の路線を経由し。乗車券の規則を掻い潜って最終的には長崎県・新大村に至る乗車券だ。
 何故、このような束状になった用紙で発行されるのか…というと、乗車券の経由路線が多過ぎて通常の切符では掲載が不可能になるからだ。あまりの路線の多さ。そして膨大な数の都市を経由して行く為、規則用紙のようなものを挟んで乗車券が完成するのである。
 JRの乗車券では、12路線までが通常、1枚の切符として発行が可能になっている。しかし、この最長片道切符では40以上の路線を経由してしまうので、当然1枚の乗車券の紙片には収まらない。
 その為、ここまで分厚い紙の状態で発行されてくるのである。
 ちなみに、この最長片道切符を題材に旅の小説を描き作品として販売されている書籍『最長片道切符の旅』という小説が宮脇俊三先生によって記され実際に発刊されているので、機会があればご一読いただきたい。

夕景の中

 キハ261系による、特急宗谷の長い旅路。現在列車は豊富に近くして、まだ名寄にも到達していない完全な序の口の状態である。
 稚内を発車しても、その先の主要都市となる名寄に到着するのは20時30分台となり、改めてして宗谷本線の長さと恐ろしさに驚愕する事になる。
 車窓を互いに撮影するなどして、互いに北海道の感想を話し合ったりして盛り上がった。その中で自分だけ勝手に稚内駅セイコーマートで購入したバーベキュースナックを食しているのは、今となっても勝手申し訳ない状態になり、何か頭が上がらない。飯テロチラつかせすいませんでした。
 最長片道切符に挑戦する為、相席した乗客は稚内空港に空路で降り立ったのだという。そして、この特急宗谷号に乗車してお互いの時間を過ごしているという状態だった。
 話を更に聞いてみると、どうやら静岡県から来たと話していた。今回の旅路では、北海道内の人と言っても宿内スタッフか一部の人だけでしか遭遇をせず、大概の人々は道外からの人ばかりであった。流石は観光の時期。これが人々を寄せ付ける北海道の全国的なこの時期にしかない魅力なのだろうか。
 相席した乗客も『静岡から』という形であり、記述を忘れたのでここに記すが宗谷岬で遭遇した方の中にも『兵庫県の加古川から』という観光客がいた。本当にこの時期は北海道に多くの人が行き来しているのだと感じさせられた次第である。

「この先見えてきますよ。」
「面白いやつですか?」
「撮影しておくと良いかもです。」
「あ、見えた!」
タイミングに関しては何回か外しそうになったものの、互いに無事。豊富に置かれる救援車・オエ61-67の記録ができた。自分にしては散々撮影したのに、宗谷本線を去るタイミングでもう1度撮影してしまいたくなるのだ。
 ちなみにここで再びオエ67に関する話の後編…のようなモノになるのだが、このオエ67。日本最北端の保存車である。かつては樺太まで至る稚内桟橋の方角に、蒸気機関車・C55形を保存していたが塩害の影響が車体を蝕み、現在では動輪とナンバープレートのみのモニュメントとして最北端で観光客を出迎えている。
「あ〜、いい。いいの見れた。ありがとうございます。」
「いえいえ。コレ見に宗谷本線乗ったようなモノでしたから。」
「…なんでここにいるんですかね。この客車…」
「自分も分からないんすよ。でもそれが面白くって。」
オエ61との出会いが、人を繋ぐ存在に一瞬だけなったような気がする。さて、次の訪問時にその姿は残っているのだろうか。

※豊富には温泉があり、温泉むすめにも加盟(?)している。温泉むすめの名前は豊富水由であり、イラストを手掛けたのはClariS/White Blessのジャケットやまんがタイムきらら系列で連載の好都合セミフレンドでお馴染みなイラストレーター・千種みのり氏がイラスト・キャラデザを担当した。

 豊富の到着で、列車は18時台へ入っていった。しかし、コレもこの列車に関してはまだまだ初手だ。この先、山に険しい道のりに高速で突っ走る札幌近郊に、まだまだこの列車の走る時間とかんきょうはbたくさん。まだこの時点でボーッとはしていられない。
 豊富には数時間ぶりに戻ったのであった。しかし、乗客の出入りはナシ。この先は名寄まで客の増減はないのだろうか。
 列車は再び名寄に向かって走り出す。
 自分たちの着席する車窓側座席の反対、ボックス席側。この方向で、中国人の訪日観光客家族による喧嘩の顛末を見てしまう状況。明らかに子ども〜親間での嫌悪な雰囲気が自分に伝わり、少々気まずい状況になってしまった。喧嘩は車内で控えめに…。

 列車は18時台、18時40分に幌延に到着した。天塩地区まで戻った事になり、ここから先の名寄方面までの助走に丁度良き場所まで戻ってきた。
 この先、特急宗谷号は天塩中川・音威子府に停車しいよいよ夜の帷が降りた宗谷本線を疾走していく。
 音威子府まで戻った時には、何というのか本格的に戻ってきた感覚。そして宿で食した音威子府そばにこの日に迎えた1日の序盤に思いを寄せてしまった。
「音威子府って音威子府そば有名じゃないですか。ここに今朝までいて、朝に音威子府そば食べてから出発したんですよ。」
「へぇぇ、いいなぁ…この近くですか?」
「はい、もう宿から駅は5分とかからずすぐに行けます。そして駅と距離が近いので列車のエンジンサウンドとか聴きながら夜はゆっくりしたんですよ。」
「いいなぁ…また次は行きたいです。笑」
「そば自体は音威子府TOKYOっていうお店でも食べられますね。その店と繋がっていて、東京でも食べられるみたいです。」
「おぉ〜、また行ってみます。」
そう話しているだけで、再びあの幻の味への想いが香ってくるように自分の脳裏を包んだ。四ツ谷だったかにある音威子府TOKYOの方面でも、またこの音威子府訪問の話をしてこようか。

はまなす号、大進化!?

 今っ更中の今更だが、はまなす号の設備に関して紹介をしておこう。
 指定席のカラフルな座席。車窓を向き、ボックスシートで構成された自由席の仕立て。コレはこの連載までに語ったキハ261系・『はまなす編成』の車内だけの特徴である。
 この編成の詳細なスペック。そしてこの編成に組まれた最大の魅力や特徴に関しては未だ記していなかった。長い時間がかかる名寄までの間、この説明に触れよう。
 かつて運転され、北海道新幹線までの期間に青函連絡列車として青森までその任務を果たした寝台急行『はまなす』の設備は、カーペット車に国鉄車両にも関わらず、最大限まで倒せるリクライニング座席と設備は至れり尽くせり。そして闇夜を貫き深夜移動に特化した最強のもてなしを展開する客車急行だった。
 しかし、その意志を継いだ(?)はまなす編成、キハ261系に関してもそのスペックは至れり尽くせりだ。
 まずはこの画像を見ていただきたい。
 この車両。実はコンセントを本格搭載した初のJR北海道の車両なのである。これまでの車両でもグリーン車・デッキなどでJR北海道の車両はコンセントの展開をしてきた。(H5系も搭載だが新幹線なので今回は除外)
 しかし、それもJR北海道の勢力展開としては普及もなく、客室内での設置はこのキハ261系『はまなす』編成が先陣を切った設備だったのである。

※1席につき、2口もコンセントのタブがあるのもこの充電システムの魅力だ。画像は同じキハ
261系のリゾート編成である『ラベンダー』編成での車中なのだが、同じものを採用している。豪快な充電がこうして可能なのは非常に旅人には有難すぎる限りだ。
(この画像に関する話だが後に登場するのでお楽しみに)

 少々不恰好なデコボコなのだが、これがまた端末を置いてのビデオ・映画の鑑賞や自分のようなBluetooth環境での作業をする人には大きな感謝なのである。
 そして突起に関してはこのように、記念撮影にも使用が可能であり、こうした写真の撮影もできる。
 と、ここまでこの充電システムに関する説明なのだが、自分事に関する話。
 枚方方面に夏祭りに行き、帰りにサンマルクカフェに寄った時の話。コンセントを使用したのだが、その時のコンセントがこのキハ261系『はまなす』編成と同じ形状のコンセントだったのだ。
 普及している標準的なものを採用しているのかもしれない。道外で発見した時は唖然としたものだったが…。
 かつてのキハ183系お座敷車両。そして車両の名前を継承したような寝台急行の『はまなす』には少し足りないような特徴かもしれないが、スマホ社会に生きる現代人として。老若男女に情報が必要とされているこの社会では。こうした設備の投入だけでも非常に嬉しい恩恵であるように思わされる。

宗谷本線、駆け抜けて〜終盤の地に差し掛かる〜

 列車は20時台に美深に到着し、そして20時30分を過ぎようかとの辺りで遂に宗谷本線を半分近く縦断した名寄に到着した。
 本当に列車が美深付近まで到達すると、ここまでの時間の長さ。そして宗谷本線を縦断して日にちをかけての稚内までの道のりが思わされる。
 大橋俊夫氏のアナウンスと北海道のJR車両たちの搭載する標準的なチャイムがガラナを飲み、スナック菓子で満たした五臓六腑を突き抜けて全身に染み渡る。
 名寄の方では2分の停車があり、列車は暫しの休息に入った。

 先ほど掲載した停車駅案内の表示の横。号車案内の表示は、この車両に乗車していると『増1』と表示される。
 この表記に関しては、関西の方に在住・出身の方なら特急『スーパーはくと』にて既視感を覚えるのではないかと思う。実際、自分もこの連想が真っ先に頭を突いた。
 しかし、JR北海道での増1号車はどのような意味が存在しているのだろうか。
 JR北海道公式まで理由を知りがてら検索をしてみると、コレは定期特急車として運用する際の号車付番の規則によるものだそうだ。団体や臨時列車に関しては少し異なった運用をされているのだろうか。その点は気になってくるが。

 名寄に停車中の時間、少しでも旅っぽい…というか列車の走行する過程のようなものが撮影したく一瞬だけ外に出た。
 しかし、この写真を撮影した直後…辺りに列車は駅員の案内放送によって扉を閉め、名寄を発車していった。20時台になっても、まだ宗谷本線を特急でも走行する事になるなんて考えてもいなかった…が、これこそが『本線』として今日まで君臨する路線の長さなのだろう。
 ちなみにだが、自分はこの記録を撮影した瞬間の車掌の放送で速攻乗車。乗り逃したなどという失態は犯さず、旭川までの道のりを再開だ。
 再び、車内チャイムと大橋俊夫氏の車内放送と共に、旅路を再開する。稚内に向かう道中の特急宗谷以来、久しぶりの大橋俊夫アナウンスだ。
 既に稚内で折返し、旅も前半を完全に終えて後半に向かおうとしている。その中でこの北海道らしい独特の雰囲気にいつまで浸れるのだろうか。
 そして車窓を眺めると、完全に夜も耽っていた。宗谷本線での夕方から1日の終了間際を、完全にこの列車内で越してしまった。かつての急行列車に、蒸気機関車の牽引する客車列車ならもっと時間を掛けたのだろう。そう思えば、この特急列車の瞬足でも時間を要してしまう宗谷本線の長さは改めて長大なものに思う。路線に終焉の落陽が差し掛かる今、宗谷本線の最速走行時間はこの位が限界なのだろうか。
 列車は名寄を出て、宗谷本線を更にひた走り途中、士別と和寒に停車した。和寒では21時を迎え、遂に日常生活であれば生活を終えて就寝の域に突入してくる。少しだけ、予約した宿への不安が過ったのであった。

※宗谷本線縦断の最中に立ち寄った、名寄本線上に残る(旧)キマロキ編成。保存会も結成され、その美しく勇壮な姿は名寄市の象徴にまでなっている。宗谷本線からもその姿は確認でき、キマロキ編成が本線の列車を見守る格好となる。

 再び名寄に戻ってきたので、この名寄で訪問したキマロキ編成に関して再び。
 実は稚内に立ち寄るまでの間に、蒸気機関車時代に除雪列車として尽力した機関車+マックレー車+ロータリー車+機関車による除雪編成を見ていた。
 車窓では通常、自分たちの乗車している方角からだとこのキマロキ編成に『手を振る』ようにして大きく眺める事が可能になっているのだが、この時間では流石に叶う事はなかった。
 このキマロキ編成に関しても、名寄で結成した保存会の皆さんの手によって綺麗に整備され、現在の美しさを迎えている。
 本記事の作成時期である冬季には車両保護の観点と雪害の影響を考慮してシートを被っており、本来の仕事に尽力していた時期の象徴である雪との共演は見られないのだが、次回の夏季北海道上陸時にはその優美な姿と頼もしいクロガネの守人の姿を目に焼き付けたいと願うのであった。

 キハ261系の特徴といえば、車両の高運転台構造だ。車両の原点は、平成の時代に登場したキハ281系・スーパー北斗の時期にまで遡る。キハ281系の走る生き様は札幌〜函館間の力走で所要時間の短縮。そして国鉄からの分割民営化によって誕生した新会社・JR北海道の存在を高らかに語る存在として大きく道内に貢献した。現在では苗穂工場にて保存され、その余生を暮らす。
 と、少し話が脱線したがこの車両には高運転台が装備され、運転士の視認性と高速運転への適応、そしてドライバーの安全性の確保に貢献した車両として今日の北海道を走行している。
 そのJR北海道の高運転台車両のデッキを、今回は乗車位置の都合で見る事が出来た。
 列車は和寒付近を走行し、既に時間は22時に向かうところだ。この中で車両の記念写真・乗車の証拠を撮影したのがこの写真である。
 先ほども記したように、この車両の扱いは『座席』ではなく、編成内に対してあくまでも乗客が一時的に寛ぐフリーラウンジのような扱いになっている。指定席を持って乗車する事が前提となったこの編成の中で、車両の異色的な存在、持ち味を発揮する存在となっているのだ。
 だが、指定席を発行せずに乗った場合。そしてまた、指定席が満席で乗車が効かなかった場合などはこの車両に乗車する事になる。
 編成の名称・『はまなす』の名称を冠した『はまなすラウンジ』となっており、編成内でも一線引かれた扱いになっている。
 しかし、一通り旭川まで乗車してみたもの。乗客の多くに関してはこのラウンジに滞在し、または指定席に滞在し、あまり編成内での移動はなかった。

 デッキから運転台側・車掌室側を確認するとこうなっている。
 揺れ等に備えて?の手摺が確認され、あとはハッチ式になっているような運転台への扉が設けられている。恐らく、この扉から先にガンダムのコクピットのような運転台が垣間見えるのだろう。何かとワクワクするロボット的な好奇心を揺さぶってくる。
 そしてこのまま手摺の先を伝っていくと、編成内の最前部に向かう事ができ、貫通路の先端に繋がる。
 貫通路の先端には1枚の窓が設けられ、展望車ばりの景色を独占可能だ。
 しかし、JR北海道では『万が一の事故発生を対策して』と車両の最前部への立ち入りを乗客に対しては禁じている。
 キハ281系以降、高運転台として設計された特急形気動車に関しては『安全の最優先』としての観点を強く張っている為、これ以上先に乗客は立ち入れないのだ。
 しかし今頃になって記事を書く為、写真を見返すと本当にガンダムというのかロボットの中に潜り込んだような機械美を強く感じる場所だ。

宗谷本線よ、またいつか

 列車は和寒を発車し、そのまま闇夜の宗谷本線を旭川近郊に向かって走っていく。旭川四条に近づいた頃だったろうか。朧げな景色として、ラッセル車両のヘッドに付けるラッセルヘッドが大量に視界に入った。いよいよ、旭川運転所を掠めて終点・旭川に到着である。
「今晩に関してはどうされます?」
「…僕は旭川四条のネカフェで泊まろうかなぁと…」
「そこ、僕も当初はそうしよっかなと思ってたんです。でも、せっかく北海道まで来たのだからしっかり予約してみようと思ったら、宿が取れたんですよ。なので旭川市内に宿泊しようと思ってます。」
「なるほどぉ…」
「旭川から先、また富良野線に乗車するんですけどね。もう少し先です。」
互いに夜の過ごし方を話して、列車が旭川に到着するのを車内で待った。
 車内放送が流れる。車内チャイムと共に、
『まもなく、旭川、旭川です。…』
からの大橋俊夫アナウンスの車内放送が流れた。この旭川から、溜まった力を一気に解放するようにして、函館本線に入っていく。そして乗務員交代も行われ、正真正銘。特急・宗谷号としての旅路は終盤を迎えていくのだ。
 再び高架橋を走る姿が目に入り、ゆっくりと建造物の美を象徴するような骨組みの旭川駅に入って行った。エンジン音が扉から伝う。
 降車して撮影したのが、この画像の写真だ。

 旭川到着、21時26分。前駅の和寒からでも30分近い激走を見せ、列車は遂に宗谷本線を完走した。
 そしてこの瞬間、同時に自分の宗谷本線の旅路も終了した。長い長い、道北の旅路だった。
 しかし決して、悪い事はなく。罪な事もない、自分にとっては洗われるような体験を終えてこの大地に帰ってくる事が出来たように思う。再び、宗谷本線に。道北に帰る時は来るのだろうか。
 相席した乗客と編成・トレインマークの撮影をして列車を見送る。乗務員交代を終えたキハ261系・『はまなす』編成は宵闇に消え、長い長い札幌への道にエンジンを唸らせていった。
 そして同行した乗客に別れを告げた。
「ではまた!成功を祈っています。」
「はい!いつか会いましょう!」
そう固く約束をし、新大村までの旅に手を振った。仕事と日程を兼ねる為、旅には専念出来ないそうだが自分にとってはその挑戦だけでも本当に憧れを持つ旅である。
 そして、自分は旭川駅のコンコースへ。
 電球色の光を浴びて、再び富良野線に乗車する。実は予約が取れた場所も、旭川市で宿泊した場所の駅と何も変わらない。なので気分的には我が家に戻るような気分であった。

※キハ261系『はまなす』編成の甲種輸送。この時点で輸送されているキハ261系『はまなす』編成は車両ではなく特大貨物の扱いとなる。そしてその影響や納車先に対する商品としての意識も相まって、速度制限は75キロ以内に制限を受けているのだ。吹田貨物駅から青森方面まで、EF510形が長距離の旅路を率いる。

(おまけ)全達成・『はまなす』編成

 旅路に関する話はここで終了になるのだが、このキハ261系・『はまなす』編成に関しては特別な思い出と気持ち。そして達成した事があるので掲載し、旅路の思い出に添える事にする。
 時はもう既に4年近くも前になるのだが、キハ261系・『はまなす』編成の甲種輸送を山崎・南草津で見送った。
 この話に関してはこの北海道旅連載内でも記しているが、この旅では完全に全てが揃った?ので掲載する。
 JR北海道の車両は、川崎車輛(旧・川崎重工業)兵庫工場で製造している。その為、関西育ち・在住の自分には東海道本線や北陸本線での撮影が可能なのだ。その先、日本海を遥々沿って北海道に向かい地道な鉄路の走行が待っているのである。
 この写真は甲種輸送撮影に成功した分の掲載である。この先、京都貨物駅で追い抜かして南草津に先回りしたのだが、結局南草津では列車の呆気ない被りで終了してしまったのである。
「次は北海道で会いますわ!ははは!」
そう言った発言が本当に時を経て、有言実行になろうとはこの時思っていなかった。

※自分の人生的な行動範囲の拡大で、北海道への進出。その過程で、キハ261系『はまなす編成』にも再会の機会に恵まれた。しっかりと鉄路に足をつけ、車両は遠く離れた兵庫から北の大地で観光特急の営業に励んでいたのである。鹿との衝突の影響で、車両のスカートが凹んでいるのが写真にも微妙に現れている。

 時が経過し、就職への転向などで自分の生活にも転機がやってきた。旅路では普通に日本全国規模に拡大し、東北を除外する日本各県に向かうようになった。
 この一環で、小樽訪問の時点に切符を活用しての北海道長距離旅行計画が浮上し、その一環でキハ261系『はまなす』の撮影機会に恵まれた。
 編成の撮影、営業運転の初遭遇に関しては北海道らしく鹿との接触にて10分以上の遅れを孕んでの到着だったが、撮影できた喜びと再会の感動は果てしないものだった。

※宗谷岬の歌詞をなぞるようにして、日本最北の観光地・宗谷岬の帰り道にキハ261系『はまなす』の乗車が叶った。これで
甲種撮影・営業撮影・乗車
と全てをこの編成では達成したのであった。非常に感慨深い気持ちを旅路でも感じたのは忘れないだろう。

 そして、乗車。
 撮影の2〜3日後に乗車する結果となり、今回のように旭川までの宗谷本線全線の縦断に近い過酷とも言える距離の旅路を共にした。
 再三再四の掲載となるが、昭和の宗谷地区を彩った楽曲。そして宗谷岬観光地への火付け役として貢献した『はまなす』に相応しい場所と仕業での乗車が叶ったのである。
 そして。このキハ261系『はまなす』編成のその後だが、特急宗谷での夏の仕事を終了すると、すぐさま9月には函館本線(山線)経由の小樽経由函館行きの臨時特急『ニセコ』に充当され、札幌〜小樽〜函館を走行する事になった。
 記事を記している今では、令和6年の羽田空港滑走路飛行機衝突事故の影響による羽田⇄新千歳の飛行機運航停止・減便措置に対し大車輪の救済輸送を見せ、札幌〜函館での輸送に活躍。新函館北斗からは北海道新幹線にも接続し、陸路の要として多くの人々を救い、全国交通の希望の光となったのである。
 はまなすの県花採用への言葉、『生命力の強さ』。そして、その大輪のはまなすのように。
 今後もキハ261系『はまなす』編成の生涯と今後が誇らしく咲く事を祈っている。

 あ、おまけまで読んでくださってありがとうございました。

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