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ACT.45『羊蹄山の眼下』

新幹線建設の忙しさ

 倶知安の駅にまず降りて感じたのは、この駅の周辺が新幹線家延伸への来る時期に向かって次々に開拓されている事だった。
 その事は手に取るようにじっくりと伝わり、駅の忙しない状況を感じさせてくる。この鉄路に関しては廃止説や貨物転用など、様々な議論を交錯させているがどの結論にて終止符を叩き付けるのだろうか。
 この倶知安駅で下車したのには理由がある。この駅にも、自分の憧れたものがあったのだ。

尊重する旅路

 この函館本線で自分は、NHKのドキュメンタリー番組で視聴したC62形急行ニセコの映像への憧れで旅をしていた。
 写真は、京都で動態保存されているC62-2に向かってあの時の仲間たちに会ってくる…と自分なりのケジメや誓いを建てた?一瞬の写真である。この時の写真は、公園内で寛いでいる親子に撮影していただいたものだったが、自分の中ではこの巨大な蒸気機関車が晩年を暮らした北海道に迎える楽しみが近づいているのが何となく身体に刻まれている時期であり、心臓の音もなんとなく不気味だった時期である。

 話を倶知安方面へ戻していこう。
 現在、函館本線の山方面を選んで長万部に行く時には倶知安に立ち寄る事が大前提になってくる。
 と、自分はC62ニセコのドキュメンタリーであるものを見た記憶を思い出した。
 それが、倶知安駅付近で貨車が入換の為に突放されているシーンであった。そして、その中にはもう1つ。倶知安を象徴するシーンが映っていたのである。それが、倶知安機関区の象徴。2つ目蒸気機関車だ。通称・カニ目機関車。
 そして、このカニ目機関車に関しては駅から待ち時間の中で倶知安駅周辺を探せば見に行けるという。コレは向かうしかないと思い、自分は京都で計画時に即座にこの機関車を見に行く事にしたのだ。
 それにしても、よく映り込んだ事実を記憶していたと思う。
 場所は、倶知安駅から直進で行けない場所…にあったのだが、観光案内所の方に聞くと
「レンタサイクルを使っては」
との事だった。荷物を片方預けて、自転車に乗車する。
 そして、最近の自転車はヘルメットを装着する事が自治体などによって様々な法で厳罰や努力義務などで制定された。貸出されたが、
「そういや自分も長い事乗ってないし次に乗る時はこうやって大掛かりにしなきゃ乗れないのだなぁ」
と少し憂いだところがあった。
 自転車は、道南バスのバスターミナル付近の車庫に格納されており、そこから1台貸していただいた。
「あとでこのポストの前に置いてくださいね。ヘルメットはお返しください。」
優しい方で、本当に親切にしていただいた。
 そして、この倶知安駅には周辺にかつて倶知安機関区の名残として転車台がある事も教えて頂いた。自転車に乗車しているので、折角ならその場所も巡ってみよう。
 自分が画面で憧れ、保存車関係で憧れた重装備機関車のうちの1つ、2つ目機関車。今、会いに行く自転車の道が始まった。

※こんな飛び出たライトのSLを知っているか?

カニ目機関車とは?倶知安機関区とは?

 まず、このカニ目とは何か。そして。倶知安機関区とは何かを自転車で走行中の時間に解説しよう。
 もちろん、『ながら操作』は禁止でありそして信号待ちにも携帯は起動していないので写真は道中一切ない。…ということで、いきなりカニのイラストが登場したがまさに『カニ目機関車』とはこの外見そのものである。
 前を照らす前照灯の付け方がカニそのものに似ている事で、機関車の前面がカニのような事から蒸気機関車のファンや鉄道愛好家は
『カニ目機関車』
と彼らを親しんでいたのだ。
 カニ目のスタイル…2灯の形態を蒸気機関車(9600形)に配したのは、昭和15年から25年頃。この時期に、当時の倶知安機関区が担当していた路線である胆振線の連続カーブ用に、2灯の前照灯が設置された。(コレには濃霧対策・氷柱対策などもあり諸説あがっている)この個性的な姿は倶知安機関区の顔となり、7両に装備されたこの形状は大いに蒸気機関車のファンたちを喜ばせたのであった。
 中には警戒塗装のゼブラ色。そして真ん中の前照灯にカニ目…と3灯の姿をした9600形もあったという。
 そして少し遅くなったのだが。倶知安機関区についてだ。

※蒸気機関車には栄養補給の適宜が要求される。

 倶知安機関区は、北海道は道南方面に位置した小さな機関区施設だ。所有していた蒸気機関車の数は、圧倒的にD51や9600形といった貨物系の蒸気機関車が多い。この周辺では、鉱物や石炭資源が多く発掘されたのでそれらの搬送や輸送にこれらの貨物系蒸気が大活躍したのだった。
 倶知安機関区が担ったのは、こうした貨物機関車たちを管轄し道南の蒸気たちの守り人となるだけではなかった。この倶知安周辺には、蒸気時代晩年に多くの鉄道ファンや社会にブームを巻き起こすC62形重連急行・ニセコを中心に長距離列車たちが多く小樽方面や函館から往来する中間地点であった。

※石炭を均し、先の区間に備える蒸気牽引列車。(磐越西線にて)

 機関区としては小さな機関区であり、貨物機関車を周辺の鉱山に送り管轄している要衝…であったが、旅客列車たちにとっては大事な栄養の補給地点がこの倶知安機関区であった。
 この駅に停車中、倶知安機関区の設備を利用して蒸気牽引の列車は先の区間を牽引しやすくする為に石炭を均して負担を減らし、水を足して先の山坂に備えていた。
 この倶知安に鉄道の設備があり、機関区が存在している事は重要な意味合いを持っていたのである。
 機関区としては岩内線の寿都方面。そして六郷方面の伊達紋別へと掠める室蘭への胆振線への拠点…として大事な意味を持っていた倶知安機関区だったが、この場所に機関区を置いた意味は大いにあったのだろうか。

カニ…目?の機関車、79615

 さて。倶知安駅から自転車を借りて疾走し、長い長い駅からの直線の道を駆け抜けてきた。道中にはセイコーマートを発見したので、これまた立ち寄って食事を買う。
「この先の鉄道公園で食事も良いかもしれませんね。」
そう言ってくださった案内さんの粋な声に連れ立って、自分は買ってしまったんだろうか。
 と、この借りた自転車の性能がかなり良かったのでご紹介しよう。
 この自転車。借りた自転車なのだがレンタルの料金は2〜3時間程度?で500円。そして5段変速付きと自転車離れが加速している自分にとってはかなり乗り心地のあり気持ちの良い乗り物だった。
 セイコーマートで食べ物を買い、再び風に乗って自転車を走らせていると。重々しい巨体を発見した。79615だ。大正生まれの蒸気で、ここまで重々しい重厚な装備を身に纏った蒸気機関車はそういないだろう。
「いた…!」
という興奮で自転車を近くに付け、重厚感を保つ大正蒸気の膝下に到着した。

 到着。9600形機関車、79615号機だ。
 この機関車は、胆振線でのカーブ対策や濃霧対策を目的に(有力説)2灯式の前照灯に改良された9600形だ。
 しかし。肝心の2灯になったカニ目姿は…というと。欠損してしまっている。風雪に晒される北の大地の影響としてコレは仕方ないのかもしれないが、折角の倶知安の象徴なのにこの姿は非常に勿体無い。現在でも、倶知安は鉄道の街としての復興には間に合うだろう。その際には是非とも大規模な修復を行なっていただき、その際には胆振線で活躍したカニ目姿を戻していただきたい。
 そして、この正統派なアングルから撮影しても分かる事がある。この機関車の重厚な姿だ。
 この機関車は、カニ目の姿で2灯の前照灯になっただけでなく他に給水温め器をもう1機装備している。(煙突後方に)こうした部分からでも、この機関車がどれだけ重厚な姿をしているか分かるだろう。
 北海道の9600形としての姿として、デフレクターに脇に抱えるようにしている給水温め器。これに加えて、もう1つカニ目の前照灯に給水温め器を持っているのだから本当にこの機関車は趣味的に見て面白い。

 79615の前面。
 前から見た姿として、やはりカニ目の欠損だけは気になってしまうのだが小脇に抱えたようにしている給水温め器の迫力は健在だ。
 最近になって塗装されたのだろうか?塗装に関しては少し厚く塗られているような印象を受けた。
 そして、入換の?手摺も装着されているのが分かる。この9600形、本当に前面から見ても重厚感に圧倒されてしまう。
 ちなみに。
 倶知安区のカニ目9600形は他にも保存機があるのだが、他の保存機に関しては既に1灯の通常前照灯に戻っているのが現状だ。
 唯一、カニ目で残っているのはこの79615ただ1つのみなのである。

 小脇に抱えた給水温め機から(ここまで漢字間違った?)、この79615を見てみよう。
 まず、給水温め機の他に目立つのはその上にあるデフレクターだ。この部分は、日本語で呼ぶと『煙よけ』となる。この煙よけの部分が、北海道の機関車…北海道の9600形は垂直に立っているのが特徴なのだ。
 この形状は、雪を高速に。そして雪を円滑に跳ね飛ばすために改良された形状としての工夫である。実際、給水温め機のこんな上部まで引き上げてしまって効果は発揮されるのか心配になってしまうが、実際に北海道の9600形たちはこの装備を抱えて雪の中を疾走した。
 雪をいかに綺麗に掻き分けられるか、も大事なポイントになってくるのである。

 79615の膝下には、説明のプレートが置かれていた。
 しかし。このプレートには誤りがあるのである。
 それが、機関車を製造した場所だ。
 この機関車。9600形は79615は日本車両製造での製造ではなく、大正13年に川崎造船所にて製造された。このヶ所が決定的に違う。この部分に関しては先人たちが既に多く指摘しているのだが、自分も訪問した1人の蒸気ファンとして…
 79615はそうして大正時代に製造され、当初の配置場所は明確にされていない。(資料が存在していないので不明である)なのではっきりした事実は不明なのだが、東日本で生え抜いた貴重な機関車なのは間違いなさそうだ。
 大正10年代には追分機関区に配置されていた事が分かっている。この機関車の歴史はここからカウントしていこう。
 そして、昭和13年に旭川へ。この後に再び追分に異動し、その後は昭和15年に室蘭へ異動した。
 一時的に昭和18年に弘前へ転属した。こうして一旦は北海道を離れた79615であったが、北海道に再び戻ったのは昭和19年の滝川転属の折であった。
 昭和27年。伊達紋別にやってきた。この機関車にとっては運命的…というか、この機関車の生涯を左右する出会いがここにあった。
 この伊達紋別に配置以降、倶知安方面へ胆振線への活躍に向かっているのだ。そして、昭和30年代(ここは不明)に、倶知安機関区へ。この倶知安機関区に転属した際に、胆振線での本格的な運用に備えて2灯の前照灯を装着したのだ。同機が『カニ目機関車』としてファンに親しまれる道が始まった。
 その後は、倶知安・小樽築港で活躍し昭和30年代と40年代の狭間を過ごしている。
 79615が廃車となったのは昭和49年。晩年まで活躍し、北海道…ひいては日本の蒸気鉄道時代を支えた蒸気機関車であった。

 と、現在の同機79615はこうして倶知安で暮らしている。
 後方に回ってみると、大正蒸気独特のリベット打ちの構造が目に入ってきた。
 前面のカニ目スタイル…で目立つ重厚な姿も捨て難いが、自分としてはこうして背後からの撮影も何か機関車の普段使いや休息の時間…など思う事を感じられ、大事にしているアングルである。
 しかしこうして個人的に後方から撮影してみると、個人的にはこの機関車特有の『厚化粧』に近い塗装の塗り具合が気になった。
 手入れが入っている事実として喜ぶべきなのだが…

 個人的に、この機関車の周辺を観察していて驚いたのは展示されている部品の量でもある。
 この機関車、やけに多くのSLに因んだ品々を置いているのだ。
 その1つに、『給水管』がある。この給水管は、先ほども解説に入れたが蒸気機関車が長距離走行した際の休息や普段から使用している蒸気機関車の水不足が判明した際に使用する道具であり、蒸気機関車を稼働させるためになくてはならない部品だ。
 そして個人的には、この倶知安という場所は鉱山の拠点…というより急行•ニセコの休息を取る場所のイメージが強かった。
 こうして給水の管を保存ではあるが、蒸気機関車が使用している展示がこの町で見られる事は京都でC62形の存在を敬愛している人間として嬉しいものを見れた気持ちになる。

 背後には、この倶知安周辺を象徴する羊蹄山がある。
 訪問した際には生憎の曇り空で、山頂は雲の傘を被っている状態であった。
 この羊蹄山を眺め、京都で現在も動態保存されているC62形は重連で疾走していたのである。そう思うと、何か来てしまった…というか。遂にこの場所に来た…というか。様々な感情が自分を渦巻いていた。
 晴れ晴れとした羊蹄山の姿は、それはそれとして北海道らしい状態だろうが自分としては傘を被ったその荘厳な姿も何か自然の美を感じられる美しい状態であった。
「コレはコレで格好が良いのかな」
と今ではその状況を割り切っている。

 さて。この79615ではあるが、実はキャブ内に入る為の階段が設けられている。掠れたいらすとやが気になるが無視しようかこうして眺めていると、カニ目の影響だろうか。その姿の勢い…というのか。この機関車の特殊な姿が目に飛び込んでくる。
 機関士たちは、胆振線や濃霧で線路を通る時に、この突き出た前照灯を頼りにして鉄の巨体を操っていたのだ。
 そして、更に分かるのがデフレクター(煙よけ)と給水温め機の重厚さ。こうした美しい機械美も感じられる。

 階段を上って、キャブに向かう。
 かつて、倶知安機関区や小樽築港機関区の機関士たちはこの目線から何度も何度もこの鉄の巨体を駆ったのだ。
 改めて、突き出たカニ目スタイルの前照灯の特異なスタイルについて考えさせられる。
 このカニ目には胆振線でのカーブ。そして濃霧。更には氷柱対策…など様々なる意味を持っていたとされているが、その真実は不明だ。
 しかし、いずれにせよカニ目の蒸気が冬の鉄路を守った存在なのは確かだろう。
 いよいよキャブ内に入ってみようか。

 キャブ内はこうなっている。この部分に関しては他の蒸気機関車と変化はない。
 但し、肝心の機関士の椅子に座って目線を体感しようとすると木張りの板に尻を叩き割られる事だけだろうか。
 今回は中身を見た瞬間に
「他のキューロクと同じか」
と判断してしまいこうした縦写真のみの撮影になってしまったが、実際に蒸気機関車はこの写真に映っている椅子に座って運転する機関士ともう1人。投炭の為に添乗する機関助士が存在する。
 現代の鉄道…では動力近代化以降の鉄道として気動車から1人での運転が可能になっているが、かつてはこうして必ず2人で乗務しなければ鉄道は走れない時代があったのだ。

 機関助士側に出て記録してみよう。
 こうして覗くと、カニ目の欠損した前照灯は見えないものの北海道キューロクならではのゴツゴツとした装備を眺める事が出来るようになっている。
 しかし、後にも触れていこうかと思っているのだが写真下部。『4.5=2』・苗穂工』の部分のフォントが現代調ではないか?
 細かい事はあまり考えたくないし、こうした部分こそ自治体に任ぜられた保存車の個性…なのだが、少し汗が滲む複雑なヶ所であった。

 機関士の対となる機関助士側から見た79615。
 この部分から感じるのは、北海道キューロクならではの重厚感とゴツゴツした配管の素晴らしさだ。
 蒸気機関車の機械美に憧れる人。そして昭和機械の美しさに惚れ込んだ人なら、この部分から眺める姿は垂涎の風景になるかもしれない。
 そして後に見返して知ったのだが、この79615。小脇に抱えるようにしていた給水温め機の他にも煙突の後方にも給水温め機が装備されている。
 倶知安付近の勾配に備えた出力向上に備えての装着…とされているが、ここまで『ゴツい』機関車だとは思わなかった。たまらない機関車である。

 この『ゴツい』機関車を、屈んで見てみよう。
 先ほどとは異なり機関士側に屈んでの観察だ。キューロク独特の小径動輪と、複雑に張り巡らされた配管の数々が良い機械美を形成している。
 何よりも目立つのは、蒸気機関車の心臓的な部品でもあるコンプレッサーと79615の特徴、カニ目である。天候は曇りと撮影には少し向かない状況ではあったが、カニ目を遠目に強調させての写真撮影には少し向いている環境であったようにも感じられる。
 そして、この位置で分かったのは79615の動輪を繋ぐロッドの色だ。
 ロッドの色は各保存機によって異なり、そして区所毎に伝統を制定していた名残を保存してからも踏襲している場合がある。
 この倶知安の79615の場合は、繋ぎ目の部分が錆びているがロッドは赤色に塗装されている。走行時はこの部分が稼働し、走行の動力を巨体に伝えて動き出すのだ。

 そして、冬季の走行に耐え風雪と戦ってきた証に小さな窓には『旋回窓』が装備されている。
 この『旋回窓』は現在でも北海道をはじめ、雪国では付着する雪や氷を跳ね飛ばすのに必要な部品として機関車が装着している。
 JR形の現在導入されている機関車では見なくなった部品だが、国鉄形の機関車ではよく見る部品だ。
 しかし、こうして眺めていると機関士の眺めていた視界の小さな見通しが改めてよく分かる。いくら旋回窓が冬季には邪魔な雪や氷を跳ね飛ばしてくれるからといって、夏季にはそうとう見辛い邪魔なものであっただろう。

 少しまた機関車付近に伏せ、モノクロでカニ目を撮影する。倶知安にはこの機関車の為に下車しているのだから…と多くの写真を撮影した。
 撮影した時間は平日の午前過ぎで人々は会社や学校に出向いている時間だったからこそ…だったかもしれないが、この重厚感のある機関車の撮影時間は、自分だけで占有して1人独占している状態であった。
 しかし、どんな場所から撮影しても絵になる機関車である。日本の機関車では随一に数えるほどの重装備をしていると聞くが、正にその通りの装いで本当にどこから見ても迫力に圧倒されてしまう。

 自分はこの姿にどれだけ憧れたのだろうか。
 北海道キューロク。小脇に抱えるようにしていた給水温め機。そして、聳り立つような垂直の雪対策デフレクター(煙よけ)。
 曇っている姿ではあるが、この姿を撮影できた事が何よりも嬉しく感動してしまうものだ。
 そして、感じるのはキューロクの個性である小さな動輪と本当に重装備が似合っている。改めて、本当にどの角度から撮影しても絵になる機関車である。

 細かい場所にも目を向け撮影しよう。
 前面には、雪を跳ね飛ばすためのスノープラウ(雪かき)が装着されている。
 この雪かきにも、79615の刻印が入っているのだ。こうした部分にも、接して細かい部分の観察をした時には撮影し感じてみるのはどうだろうか。非常に大きな新しい目線で機関車を楽しめるかもしれない。

 しかし!!後悔を激しくする事になるのであろう…とすれば、この背後に羊蹄山が見えない事であろうか。
 晴れていれば、背後には羊蹄山が見え、雄大な山岳を背にした蒸気機関車の美しい保存風景を撮影して帰る事が出来たのである。
 何年か前には(と言ってもこの機関車を知るよりも)、カニ目も欠損せずそして2つ目羊蹄と親しまれていた79615。今回はバックが残念だったが、次回は更に綺麗な磨きの掛かった姿で御目にかかる事を祈ろう。

 と、自転車を漕ぎ出しこの場を去る前に。
 辺りの花々が綺麗に咲いている事に気が付いた。
「北海道だからまだ春なのかね」
と少し自嘲するかのように思っていたが、これまた機関車と綺麗に合わさった姿を撮影する事が出来たのである。
 今度こそ、2つ目のカニ機関車にさらばと手を上げ、次の場所に自転車を盛り漕ぐとしようか。

 実は食事もこの場所で済ませている。
 当然、南小樽でのキヨスクでは買っていないし余市駅にはめぼしい店は無かったし…と自転車を走らせていたところ、セイコーマートを発見した。
 案内所の方には『セブンイレブン』と告げられたのだが、しかしスルーして別の店を探していたところセイコーマートを発見した。このセイコーマートでは
・ソフトカツゲン人間ガソリン用
・ブルーベリーパン
・ラブラブサンドチョコ
を400円で買ってカニ目機関車の前で食事。感慨に浸る朝を迎えたのであった。

※かつて、北海道の鉄道は本線から多くのバイパス線として支線が建設されていた。(想像写真)

夢の迂回線

 かつて、北海道、倶知安周辺には2つの路線が分岐していた。
 そのうちの1つが、岩内線である。岩内線は完全に幻となってしまったが、北海道を小沢から日本海方面に迂回し、最終的に黒松内で函館本線と接続する計画になっていた。
 この岩内線に関しては今回『あった』事実に関しての表記にしておくが、最終的には営業成績が振るわず黒松内までの工事は未成線に終了。結果的には途中の岩内まで建設され、たった14キロの路線であった。末期は何故か片道1本しか列車が往来しない悲劇を残し、昭和60年に廃止されてしまった。

※写真は遊歩道と化した手宮線

 さて。今回訪問するのは倶知安付近では有名な鉄道遺跡…として語られ鉄道公園が整備されている『胆振線』の残照を見に行くとしよう。
 今回は79615を見に行くのもそうだが、列車の待ち時間が長時間な事。そして、この胆振線の廃線後に整地され鉄道公園となった胆振線の六郷駅に行くのも目当てなのであった。これが、自転車を借りた最大の理由である。
 胆振線は、倶知安から室蘭本線伊達紋別まで伸びていた国鉄時代の迂回路線だ。大正5年に建設され、脇方支線の建設もあり鉱山開発。鉱石搬出を目的として開通した鉄道である。
 しかし昭和55年の国鉄再建法にて、業績が振るわなかった路線である事から廃止が決定。現在は廃線跡を残し、そして一部路線をバスに転換した形状になったがこのバス路線も廃止になっている。
 そして現在は倶知安側に六郷という駅が残っており、この六郷の駅周辺を開発して鉄道公園に改修した。
 この六郷は胆振線唯一の行き違い可能駅であっり、胆振線の運転に於ける要衝であった。
 現在の様子を自転車で探しに行こう。

 自転車で再び、風を切って久しぶりに通勤通学以来のギアが変わるチャカチャカしたメカニックな感触を楽しんでいる間に。
 複雑な道に迷いながらも、六郷鉄道公園に到着した。かつては行き違い可能になっていた…と記されたこの場所であったが、現在は静かに緑豊かな空気が流れそして住民や人々の憩いの場になっているようだ。
 そしてこの公園の裏からは子どもたちの元気な声が聞こえていた。
「平日だ、今日は」
そう自分に言い聞かせるようにして、少し特別な時間を過ごしている事を自覚する。子どもたち。俺みたいに遊び呆けるなよ。

 説明文にあったように、この場所には緩急車(車掌車)と客車が展示されている。本当に静かな
場所で、不意に通りがからないとこの場所を見つける事は恐らくないだろう。それか、訪問前にマークしていない限りには。
 後方、子どもたちの声を聞きながら撮影に勤しむ。緑が茂る中2両の佇む車両を見ていると、何か心が洗われてしまう。
 これは緑が発する効果なのだろうか。

 客車の方角に先回りした。
 客車の方向に回ると、線路はここで途切れている。国鉄再建法によって廃止されてしまった胆振線。その胆振線の先の線路は、この先の線路を更に先に進んで伊達紋別方面へと次の駅は寒別まで昭和61年まで伸びていた。
 今は、客車の先には閉ざされた公園が残っているのみである。
 そして、かつては行き違い駅としてこの駅では列車の交換を実施していたがその面影も無くなってしまった。
 聞こえるのは、学校の時間を楽しむ子どもたちの声だけ。かつてはここに、蒸気機関車や気動車の音が響いていたのだろう。
 現在も残っていれば、室蘭方面への貴重なアクセス路線として大活躍間違いなしだったのだろうか。

 先に客車を見てみよう。
 客車は、小樽でも見たようなブルーの旧型客車であった。急行ニセコの印象でもそうであったのだが、北海道の旧型客車列車といえばこの青系の色が想起される。
 塗装は綺麗に塗られ、そして艶を抑えつつも綺麗な仕上がりになっていたが、テールランプの部分が欠損している。こうした部分だけは少々残念を感じてしまう。
 そしてここで注釈しておくが、客車の車両写真を撮影しようとしたところ、木の成長に阻まれこうした写真しか撮影が出来なかった。そこは御了承頂きたい。
 貫通路の方にも目を向けてみると、板が垂れ下がっているのがよく分かる。こうした板の下がっている表現も、自分としては年季のある表現というか客車のありのままが出ていて好きな部分だ。
 記していなかったが、この客車はオハフ46形だった。44形列の客車に入っている客車だろうか。
 車両の番号は、オハフ46-501とあった。

 台車は、こうした金属バネの台車になっている。ブルーの旧型客車には小樽でも遭遇したが、台車などの細部には観察が至らなかったのでこのチャンスに観察出来たのは非常に大きい。
 全然感じなかったし、自分は世代でもないの…だが、模型や先人たちの写真で何度も見た姿のあの代車だ。小樽の列車カフェで見たTR47とは異なる台車である。そうした事も、撮影してハッキリと分かる。
 自宅などでは、自分の旧型客車好きや国鉄好きが向上した結果に客車の走行音などを聞いての読書に浸っていたりするのだが、そうした音の中には乾いた車輪の
『タタタン…コトトトン…タタタタコトトン…』
という音の響きや旅情を感じられる。
 この音が日本中を駆け巡っていた頃、というのは本当に何処へでも行けたのだろうか。そんな気持ちに自分を駆り立ててくれる。
 そうした音を発している台車だ。小樽で見た台車はTR47だったが、この台車の形式はTR23である。TR23では、台車の中心に見える金属バネが目立って見えるのが特徴だ。この金属バネが、車両の乗り心地を左右していたと言っても過言ではない。

 台車が観察できる場所では、こうして車両の床下の観察ができる場所でもある。
 撮影したのは、車軸発電機だ。
 この車軸発電機は、車内での室内灯などの電気設備で使用する為の電気を使用する為に蓄電している発電機であり、自転車の前照灯のように『モノが前に動く力』を利用して発電し電気を蓄えている。
 この車軸発電機の場合はベルト状の発電機を車輪付近に咬ませて、電気機器を生成。そして、機関車の牽引によって電気を発生させるシステムになっているのだ。
 このパーツに関しては京都でGM客車キットを生成している都合で何回も気になっており、実際に発見した時に
「おぉコレは」
となったのだが、発電機だと知ったのは後になってからの話であった。

 さて。六郷駅のホームに回ってみよう。旧型客車の扉が開き、今にも発車を待っている状態になっている。これまた旅情を誘う面白い状態だ。
 客車の扉が開扉しているという事は、乗車しても良いのだろうか?折角なので、乗車を決め込む事にした。
 しかし、この胆振線の鉄道公園。自分以外に見学者や遊びに来たと思しき人が全くと言って良いレベルに少なかったのが違和感であった。
 後に地元の住民らしき人が自転車を横付けして公園内で時間を潰していたが、一時的なものですぐに帰っていった。
 余談だが、鉄道公園と言っても本当に人々が集う憩いの場というよりかは静かな場所に鉄道車両を置いて、胆振線の遺構を静かに偲んでいるように思えた。先に感想を書いておくのであれば。

信じて良いか、こんな旅路を?

 さて、胆振線の遺構として飾られた旧型客車に乗車してみた。乗車と言っても、この客車は1ミリも前に進むわけではないから『立ち入った』の方が都合の良い表現になるだろうか。
 と、この客車に乗車するとトイレが見える。便所という表現に昭和を感じるが、このトイレ区画には今では見ない注意書きが記されている。
『停車中には使用しないでください』
という注意書きだ。
 この注意書きはそのままの表現である。昔のトイレはそのままの表現で、かつての昔の住宅や家庭でよく設置されていたボットン式の便所が、列車にもごく普通にあったのだ。
 家庭のボットン便所なら、排泄物は通常下に溜まっていく。(読む時間や場所を選んでください
 しかし、列車にボットン便所がある。それ即ちどういった意味だろうか。そのままである。
 列車の車内に入って用を足そうと思ってトイレに入り、下を覗き込むとそこには線路が広がっているのだ。
 つまり、糞尿を線路にそのまま垂れ流して列車から落として後はどうにか処理をして済ませる…という形で国鉄時代は賄っていた。
 現在は下水設備の発達や鉄道の進化でそうした事は無くなったが、こうした事情で駅構内に糞尿を投下されると困る事情からかつては停車中に車内便所の使用が厳禁とされていたのだ。
 これをそのまま『垂れ流し式』と読んでいた。昭和の出来事語り草である。(よくぞ耐えてくださいました

 こうして客車に乗車できただけでも、自分は何だろうか
「先人に一歩近づけた」
という気持ちが深まったというのだろうか。不思議な気持ちになってしまう。
 と、旧型客車ではまた信じられない事が。
 現代の旅ではまた信じられないが、旧型客車ではこうしてかつては後方の扉を開扉したまま運転していた時期があったのである。
 写真を見た時、本当にこんな時期あったのだろうか?と首を傾げたが、実際に写真を見ていくとこの写真のように鎖やロープなどで縛って後方の安全を保っていた写真が幾つか散見された。
 本当に旧型客車が駆け抜けた時代は、大らかで旅の楽しさがあって、日本が広い時代だったのだなと感じる。

 こうして扉付近に向かえば、スリルも満点の環境だったろう。
 現在は寒別に向かっていた途切れた鉄路でしかこの風景は体験できないのだが、皆さんも機会があればこの景色を見てほしいと思う。
 しかし何よりも感じるのは、板が突き出ている事だ。この板が突き出ている事に、旧型客車としての深いリアルな感触を得られるのは何か気のせいではないような気がする。
 鎖に近づけば、旅の充実感は更に増してくるだろう。

 さて。振り向いて車内だ。
 車内は…見てのようにボロっボロである。
 なんとも言えないのがこう、非常に辛い。胆振線に関する廃線遺跡は多く残っている(しかし決してその数も多いとは言えない)が、鉄道公園まで名乗っており扉も開扉し、リアルな旧型客車の姿も見せている展示だからこその整備を個人的には求めてしまう。
 車内を見返して、天井が捥げている(抉れている?)姿を見てしまった時に自分は唖然とした。
 どうにか、またリアルな再現がされますように。

 客車背後で目線を下げると、こうした灯具関係の部品も発見できた。
 恐らく、減光との表記が確認できるので尾灯の調整に使用していたのだろうか。前照灯にロービームとハイビームが存在しているように、尾灯にもロービームとハイビームが存在していた事を後世に語っている部品なのだろうか。正直、中を確認してみる気にもならなかったが一体何だったのだろう。

 客車車内に関しては。最後にこうした車両の薄らとした雰囲気の残る写真だけを撮影して去る事にした。
 僅かなカメラを向けた時間であったが、胆振線の鉄道公園が残していたこの客車の扉開扉から繋がるこの時間というのは懐かしさを感じさせ。そして、先人たちの旅した日本の雄大さを思わせる不思議な空間であった。
 客車の木で組まれた空間に関しては(大半分だと思う)そろそろ限界が来ているのかもしれない。何かしらのチャンスで、補修整備の時が来る事を祈ろう。(改めて)

 そして。もう1つこの場所には車両が展示されている。それが、この公園の説明で『緩急車』として説明のなされていた『車掌車』・ヨ7913だ。
 車両としては、ヨ6000形の部類に入る車掌車だ。最高速度は85キロまでの走行が可能になっており、そして北海道向けに耐寒耐雪の構造を施した車掌車である。
 そして、小柄な車体をしているのもこのヨ6000形の特徴として特筆できる事である。3枚窓の姿が可愛い容姿を演出している。

かつての貨物列車に与えられた事

 かつて、貨物列車にはこの黒い車両『車掌車』を連結するのが定番の役割であった。
 昭和60年までこの車掌車の仕事は続き、そして国鉄の鉄路から『ヤード式貨物輸送』の存在が昭和59年に消滅しその仕事を閉ざした。
 車掌車は、どのような仕事をしどのような使命を最後尾で背負っていたのか。
 まず、車掌車の背負っている形式の『ヨ』という形式に注目頂きたい。これが普段聞きなれない用語から来ているのだ。『用務員』の仕事場である車両・『用務車』から来ており、その頭文字で『
ヨ』なのである。
 その為、貨物列車の車掌は通常の旅客列車と違う仕事を任された。列車全体を掌り、長大な列車の管理を最後尾で全て行う。停車駅、入換の場所などを把握し、その責任を背負ったのだ。
 国鉄時代は列車の管轄が厳しく、車掌の乗務や列車の管理が徹底されていた。その中での車掌業務…貨物列車での車掌業務は1つであり、この狭い車中の中で車掌はブレーキを装備している小さな事務室の中。列車の管理を担っていたのだ。
 役割自体に関しては、事務的な仕事に付随して列車の進行合図を出す事、そして万が一に列車を緊急停止させるように指示を出す事以外は大半変わっていない。
 時の流れで速達性貨物や輸送合理化。そして形態の変化で車掌車は消滅し、現在の保存車たちに至る。
 このヨ7913に関しては、北海道活躍に際して車内にダルマストーブが設置されている。車内の柱状の物体が正にそれだ。

 ヨ7913…車掌車のデッキから旧型客車を眺めてみる。
 連結面のこの間隔こそリアルではないが、この間隔を見て一瞬だけではあるが京都で何度も繰り返し再生した昭和のSL映像館の臨場感たっぷりの映像が蘇ってきた。
 あの映像の中には、旧型客車と蒸気機関車の連結面が映され、哀愁たっぷりの汽笛を被って出発していくのだった。岩見沢の機関区だったろうか。あの映像が今でも忘れられない。
 そうした自分の記憶。そして旧型客車での日本の旅路の広さに思い巡らす記録の1つであり、自分の中では素晴らしい1枚となったのである。
 自分の中では、こうした国鉄の残り香を追っかけていく。壮大な日本のカケラを追っかけていくのが何か好きな事なのかもしれない。

功績と廃線の路にて

 胆振線の鉄道公園(未だに正式な名称をこの場所で使っていない)とだけあり、この場所には9600形蒸気機関車の動輪が保存されている。
 倶知安の町としては79615として1台のカニ目蒸気機関車を保存しているからこの場所に蒸気機関車は要らない?という気持ちで動輪飾りを置いているのか、それとも時代が間に合わなかったのだろうか分からないがこの場所には9600形蒸気機関車の9669の動輪が保存され飾りになっていた。
 この場所にある、『車両』関係のモノを集めて写真を撮影するとこうなるというか現状はこのような状態になった。
 胆振線では蒸気機関車が多く走行したが、後に気動車の時代も迎えている。しかし、最も全盛期だったのは蒸気機関車の特に9600形の時代だったのだろう。

 9600形の動輪。決して大きな動輪ではないが、9600形はこの小柄な動輪で日本の蒸気鉄道時代の大正から昭和までを60年近くリードしてきた。
 そして、胆振線は昭和新山の噴火というアクシデントも相まって様々な自然との戦いもあっただろう。
 そうした昔の話を、今では静かに旧型客車たちと語り余生を暮らしていると言っても…良いのだろうか。
 子どもたちの声。そして、静かな緑が広がる情景。シャッターの音だけが広がる空間には、この路線の抱えた功績と伊達紋別までの夢が詰まっていた。

 車掌車側から見て、倶知安の方角。この方角を見ていると、明らかに踏切警報機が鳴動し列車が往来しても変ではない空気がする。
 しかも律儀に警報器には機械まで設置されており、その細やかさには謎の関心をしてしまうばかりである。
 だが、車掌車からのレールはこの先。この六郷で切れている事を示している。実に切ないものだ。

 更にはこうしてその先には4灯?の信号機の設置も確認できた。倶知安まで併用軌道を敷き直せば、再びこの場所まで鉄道の運転が叶いそうなくらいには充実しているのが少し気になる。
 しかしこうして設備が充実しているのに、何か物足りないのが残念というか。もう少し欲しかった。

 と、鉄道公園での保存車観察を終えて駅に自転車を戻す道のりが始まった。
 先に戻る間に、黄色い花と旧型客車が共演しているのを発見したので撮影。しかしこの道中、よく咲いていたが何の花だったのだろう。
 と、この写真に映っている六郷という駅について由来があるので解説。
 この六郷駅の由来は、当時の倶知安から線路を伸ばした先の駅開設先に至る場所の住所が、『倶知安町6号線』だった事に由来している。
 6号が転じて、六郷という駅名へと転じた形態になったのであった。

 さて。この六郷の鉄道記念公園に別れを告げて自転車を本格的に走り出そう。
 場所は見ても分かるようにこうして、車両が不意に置かれて後はだだっ広い場所に公衆トイレと学校がある静かな場所であった。
 帰る道の自転車は、少し何故か気持ち良かったのを覚えている。最近乗車していなかったギア入りの自転車の勘。そして風を切る面白さ。充実した待ち時間になりそうだった。

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