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素直に、まっすぐに、この生と世界に生きる

哲学者、西田喜太郎の「善の研究」は、人の能力が全開する生き方について語っていると思われる。この「善」は、世の中でいうところの「善悪」についての「善」ではない。

善悪のような倫理的価値観としての「善」ではなく、西田喜太郎の体験とその仏教知識から生まれた考え方だと言われている。その著書には、仏教の「真我」と「善」の関連性が重要なテーマの一つとして取り上げられている。人間の存在においては、個人的な自己の存在と、普遍的な自己の存在が密接に関わっているという考えてに基づいていて、この普遍的な自己の存在こそが仏教の「真我」であると解釈している。

さらに個人的な自己が普遍的な自己との関係を取り戻すためには、善の実践が必要であると考えている。西田喜太郎によれば、善の実践によって、個人的な自己の束縛を解放し、普遍的な自己との統一を実現することができるということらしい。

そしてその真髄は、仏教の「真我」と「善」が密接に関連しているという考え方で「素直に、まっすぐに、自分のまま、この世とこの世界にひたる」ということだと説明されている。

仏教でいうところの「真我」はとても興味深い考え方。生まれたばかりの子供は、未だ世の中の観念にしばられていない。その素直な「素のまま」の状態をいうのだろうか。

それについて思い当たるのは、イスラム教でいうところの「ファタハ」だ。
人間は、生まれながらにして、羅針盤のようなものを心に持っていて、何が正しいのか、自分はどう生きればいいのか、その心は本当は知っている」という考えに要約されると考える。

だから唯一無二である神を信じて、自分のファタハにしたがって生きていくことがムスリム(真のイスラム教徒)の道であり、それが人として最高の道であると、聖典であるクルラーンでは説いている。

これは自分の考えでしかないけれど、人は誰だって、「自分はこのように生きていく」というものをずっと奥深いところに持っている

ただそれが社会の通念や様々な観念の淀みに侵されて、自分の目には見えなくなってしまうことが多い。

どうしたらファタハに沿って生きていくことができるのか。
それは毎日毎日の積み重ねで、自ら問うことしかない。

逆に言えば、そうやって本当の自分の光を求めて、少しでもその方向に生きていこうとすることそのものが、ファタハなのかもしれない。

それについて小説を書いたことがある。読んでいただけると嬉しい。








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