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薔薇色の人生

TVで発達傷害の特集をしていた。
最近頻りに話題にされているので、ひととおり番組を見てみた。
その後、無性に森茉莉が読みたくなった。



森茉莉と言えば、鴎外の娘だとか、贅沢貧乏というタイトルそのままの様に、生活力に乏しい本当の意味でのお嬢様で、
言ってみれば、計算されてない元祖不思議系 (本物の!) と私は呼んでいる。
1903年生まれだそう。

こよなく森茉莉を愛している母が、この本は手放す。と言って送って来た森茉莉の本が有ったはずなんだけど、、本棚で見付からない。
今読みたいのにー 無い。

引っ張り出した本の小さな山を戻しながら、余り見覚えの無い日焼けして色のあせた黒い革の装丁本が有った。以前母が習い事、ルリユールで装丁したものだ。
配色は素敵だけど、タイトルも無いし非常に捲りづらい。
本人曰く、ルリユールはまったく自分に向いていなかったそう。


そんな本の表紙を捲り2、3枚してから現れたのは、「私の美の世界 森茉莉」 有った! 




読みたかったのは、昭和30年代の後半に発表された「タオルの話」

森茉莉って些細な事でも、薔薇色に幸せを感じられる人だと思う。一種の才能だ。読めば読むほど、そう思う。
きっと本人も、薔薇色の人生を歩んだと思っているのではないかと、私は勝手にそう思っている。

タオルの話
"私の年齢を知っている人は、これを読んで信じられない、という顔をするかもしれない。
だが、下北沢の商店街を歩く私を、(私だということを知って)見たことのある人は、すぐに信ずるだろう。《生きていることはなんて楽しいことなんだろう》そう言いながら歩いているような、十代の女にも一寸ないような顔をして、ふらり、ふらりと、漂っている私を見たなら、それは無論信ずる。人生には人間関係というむつかしいものがあるが、独りで部屋にいる時、独りで歩いている時には、生まれたばかりの赤ん坊の心境である……"



 …出だしはこんなはじまり。
タイトルにあるタオルのことは省略してしまうけど、(様々な色のお気に入りタオルをベッドの端に掛けているだけで、これもまた凄く幸せなんだとか) 


この話の締めくくりは、大正15年のある朝、偶然気象現象でピンク色の朝焼けの朝を迎えて、

《なんという幸福な朝だろう!!》恋がなくても人生は薔薇色になりうる!
 らしい。 

森茉莉によれば。
何もかも楽しく感じられている自分自身が素晴らしいそうだ。

現代ってこういう感情を取り戻すために、多くの人がセラピーやメディテーション、自己啓発的なセッションに時間を費やすけれど、
本当は森茉莉の様に、ピンク色の朝焼けを見ただけでスイッチをオンに入れ替えられる!

そんな才能を、多くの人が持つことが望ましいと思う。


とくに昭和の時代は、発達傷害が個性だとは認識してもらえず、そのため子どもの頃苦労した大人は結構居ると思う。

でも今アメリカでは、大企業が率先してADHDと診断された人々を雇っている、とも言われている。勿論社会でプラスに動いてくれると確信しているからだろう。前向きだ。


日本では発達傷害と反して、定型発達症候群という言葉も存在するらしい。言葉だけでも障害とか症候群とか、、難しすぎる。

いったい正常ってどんなものなのか?

言葉だけ巧みに操って、わかったフリもしたくない。
幸いなことに現代は、森茉莉的な人が強く生きて行けるのかもしれない。


少しずつ世の中が変化して来た今、言葉に惑わされずに自由に生きていくなら、例えば遺伝的に譲り受けた自分の容姿を受け入れるのと似た感覚で、自分を出すことがはじめの一歩。


社会と自分が共通出来そうなことを自ら認識し、pick して、自分の得意なことを謙虚に提供出来たら、心はいつのまにか満たされる。

なかなか難しいけれど、これが近道になるのだろう。

そして些細な小さな出来事から幸せを見つけられる天才に成れたら、きっと理想の自分の世界が目の前に在る。

それは知らないうちに広がっているのかもしれない。


人並みから外れているから我慢しなきゃいけないわけではない。
好きなものを選んで、自由な気持ちで自分の心に応える。

自分の軸は自分の中にしかないのだから。

西暦がどんなに変わっても、本物の元祖不思議系である森茉莉から学べることは、数知れない。


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