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酔いどれ雑記 4 飛んだイスタンブール


一昨日、イスタンブルで事故に遭った話を書くと予告したので、今日はその話です(本当は昨日までに書き終えて掲載する予定でしたが無理でした)。

※レントゲン写真があります。出来るだけグロくはないように色調や彩度を変えましたが苦手な方はこれより先閲覧非推奨です。

イスタンブルは私の大好きな街です。私は20代後半、しょっちゅう旅をしていましたが、死ぬまでにまた絶対に行きたい街がいくつかあって、イスタンブルもその一つです。ちなみにその絶対行きたい街とは(順不同)リスボン、パリ、ウィーン、イェルサレム、ニューヨーク、そしてイスタンブルです。つい最近までニューヨークはその中に入っていなかったのですが、私が初めて行った海外の街で、その後しばらくニューヨークのとりこになり(とはいうけれど2度目に訪れたのはその12年後です)、最近またニューヨーク熱が再燃しているので加えた次第ですーーでも私が好きなのは(憧れているのは)60年代、70年代のニューヨークですが。10代、20代前半のときに当時のニューヨークを見てみたかったですね、いや、そこで暮らして彼の地の文化に浴したかったです。ファッションも音楽もたまらないものがあります。......ってイスタンブルの話じゃないのかよ?早くそれを書けとおっしゃる方は多分いないかと思いますので好きに書かせていただきますよ。私は旅行先はほぼ欧州でしたけれど、ニューヨークはなんかずっと特別なんですよね。特にすごく親しんだわけでもない、3回しか行ったことがない、観光を沢山したわけでもない。滞在日数も少ない。一人旅で彼の地に行ったこともない。初めて行った海外だからということもないわけではありませんが、私がニューヨークを特別だと思うのはそれが一番の理由ではないです。理由はよく分からん、けど特別、そんな表現が一番近いです。

さて、イスタンブルで交通事故に遭った話に入りましょう。あれはもう10数年前のことです。目的地はどこだか忘れましたが、私は同行者とタクシーに乗っていました。そして赤信号で停車したところ、後続車に激突されたのです。一瞬、何が起きたか分かりませんでした。私は強く頭を後部座席に打ち付けてしまい、目の前と目の裏に星が無数に見えました。すごい痛いわけではないけれどやっぱり少しは痛い。外傷はなさそうでしたが、頭を打ったらすぐには症状が出るとは限らないらしいじゃないですか。うわ、どうしようと思っていたら同乗者は別に無傷というか、何ともなっていないと。運転手も何ともなさそうでした......身体的には。

事故ということで(現場は結構大きな道路でした)、周りから人が集まってきて後続車のドライバーらしき人もやってきました。私はトルコ語は分かりません、挨拶程度しか。なのでやむを得ず座席に頭を打ち付けてしまって痛いというジェスチャーを英語を交えてしました。そうしたら「アスピリン要る?」と片言の英語で返ってきて「そうじゃな~い!」と思いつつ「…...要らないです、ありがとう」と答え......。運転手と追突したドライバーが何やらずっと話し合っていました。その間かなり不安でしたね、痛みよりどうなるんだろ、これ、面倒に巻き込まれたなという。話し合いがどうやら終わり、運転手が戻ってきて車を走らせました。「どこへ行くの?」ともちろん訊いたはずですがあまり覚えていません。何て返ってきたかも覚えていませんが、おそらく片言の英語で病院へ行く、みたいなことは言ってきたのではないかと......。

何分くらいかかったでしょうかね、まぁそうかからないうちに病院らしき場所の前で車が止まりました。そしてそこで初めて、後続車は家族連れで5人くらい乗っていたということが分かりました。タクシーの後部が滅茶苦茶に大破していたことも......。病院の中に入り受付をしたのですが、何故か(?)英語の通じる人がいない。結構大きな病院にみえましたから、英語を話す医師や看護師もいないとは思えないのですが、とにかくドライバーが事情を話し、私たちは廊下に並べられた長椅子で待たされました。

海外の病院へ来たのはそれが初めてでしたので、全く勝手も分かりませんし、不安なまままぁ待つしかないよなぁと辺りをちらっとみると深刻そうな面持ちをした家族らしき人たちや、血まみれの人が車いすに乗せられてやってきたり、身体に何か長いもの(医療機器ではなく明らかに異物)が刺さった人が担架で運ばれていたり......なんだかすごいところに来てしまったなと思いました。

しばらくして病院の一角にある、簡易的なベッドのみが並んで置かれていて、カーテンで仕切られただけの場所に案内されました。そこは部屋ではなく、広間と呼ぶには狭く、また隣のベッドとは大して離れておらず、すし詰めまではいかないけれど......という感じのところでした。私はベッドに横たわりましたが(同行者は立っていた覚えがあるのでカーテン内に椅子はなかったのでしょう)。横たわっている間、うめき声が聞こえてきたり、すすり泣く声が聞こえてきたのでちょっとつらかったです。私のようなおそらくなんともなさそうな人が来ていい場所ではないのではないか?......いや、そんな考えは傲慢だ、偽善だ......と色々なことが頭の中を駆け巡っていました。とにかく不安で不安でたまりませんでした。

ベッドに横たわってどのくらい経ってからか覚えていませんが、誰か(おそらく看護師)がやってきて、各種検査が始まりました。順番は忘れましたが、全身のレントゲン、エコー、採血、採尿......これらは確実にしましたがその他検査はしたかちょっと覚えていません。問診はしていません(なにせ、言葉が通じる人に対応してもらえなかったので)。イスラーム国なので、検査自体は男性の医師や技師が行うのですが、女性の看護師(?)だかアシスタント(?)ーー正確にどういう役職かが分からないのでそう書きますがーーがついてきました。案内がある度に一体何をされるのだろうかとビクビクしていましたが、特に採血は、ちゃんと新しい針を使っているのかと確認を怠らないようにしました。混乱してるとはいえど、そこはちゃんと冷静にならないとダメなわけでして。ちなみに尿検査は日本のように紙コップに入れる方法でしたが、何故か尿の入ったコップを持って廊下を歩かされました。個人的には裸体を医師に見られるより恥ずかしかったです。廊下には患者や付き添いの人たち、医療関係者が沢山いましたからね......。

検査が終わって、またカーテンで仕切られたところで待機した覚えがあります。しばらくして呼ばれて医師に診断書を見せられながら説明を受けましたが、なにせ言葉が全く分かりません。けれどそのまま帰されたということは何も異常がないと判断されたんだろうと思うほかありませんでした。頭を打ったのに、頭関連の検査を受けなかったのはちょっと謎です。ドライバーの説明に問題があったのかもしれないと推測していますが。当然といえば当然かもしれませんが、費用は一切こちらは負担しておりません。保険に加入しているかとも訊かれませんでした。おそらく追突したドライバーが全額負担したのでしょう。あとで聞いた話なのですが、トルコでは追突事故があった場合、追突した方が全面的に責任があるそうです(当時の話なので、今はどうか分かりませんが)。

確かその日の夜遅くにはイスタンブルからデリーに発つ予定でした。けれどそれをキャンセルし、同行者は翌日午前に先にデリーに向かい、私はもう5日後くらいにイスタンブルを発ちました。頭はどうやら無事でしたが、首がちょっと痛かったですね。でもそんなに大したことにはならなかったのでよかったです。5日間ほどの滞在中、数週間前に知り合いになった絨毯屋の兄さんに事故に遭った話をして、診断書に何が書いてあるか見てくれと頼みました。字がものすごく乱れていて、これ読めるのかな......?と思いましたが「2、3日痛みが残るかも知れないが問題はなさそうだ」ということが書かれていると教えてくれました。↓これが問題の診断書です。どの国のお医者も、字がちょっと......という方が多いのは気のせいですかね......?

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そして兄さんはその病院は国立で、ガンとか大きな病気の患者が多く行くようなところだとも教えてくれました。民間の病院、医院だと英語を話せない医師はまずいないけど、国立だと話せない人も多いとのこと。

レントゲン写真の入っていた袋に病院の名前が書いてあったので検索してみたら、オスマン帝国のスレイマン1世の皇后の名を冠していることが分かりました。なかなかしたたかな女性だったらしく、調べてみると色々なエピソードが出てきましたが、ハレムではそうでもしないと生きていけなかったのだろうと思うといい加減な感想も言えません。元々奴隷として連れてこられたわけですし......。↓袋に描いてあった皇后の肖像です。いかにもスラヴ人らしい感じが......。

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そしてお待ちかね(?)診断書よりなにより私の究極の個人情報?背骨と骨盤を公開です。写っている蝶番みたいなのは下着の飾りですね......なんか蠱惑的......いえ、なんでもありません。

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