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それが綺麗じゃなくたって 構わないよ


この人はどんな人生を歩んできたのだろう。

そう思わせる人がいる。使う言葉や、不意に見せる伏せた横顔だったり。洗練されている訳でも選択している訳でもない、ありのままの言葉と表情に強く引き込まれる。そしてそういう人は、決して多くを語らない、誰かに踏み込みすぎない。そして言う。「昔のことは忘れてしまったよ」と。


覚えておきたいことや忘れたくないことは、良くも悪くも頭と心に焼き付くものだ。

簡単に忘れられることというのは、実はそんなに多くない。大抵は記憶の奥底に沈澱する。だからオレンジジュースを飲む時に何度か振って飲むように、思い出そうと強く頭と心を動かせば、浮かんでくることもある。誰と、どんな言葉を交わして、何処へ行き、何を見て、どれだけの時間を、共有したか。不思議とそれは、ほんの少しの揺れで鮮明に思い出す。


だから、隠すのだろうか。

「忘れてしまった」という都合の良い言葉で、曖昧にモザイクをかける。それを語るべき時ではないから、それを語るべき相手ではないから。ただ純粋に言葉にするのが嫌だと思うほど、傷付けられたから。曖昧にぼかされたモザイクの向う側、そこにいつも真実はあった。使われた言葉の意味も、伏せられた横顔が見る景色も、きっと何ひとつ劣化することなく、焼き付いた記憶。


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忘れた方がいいことは、きっとたくさんある。

記憶を消せますか、と聞かれることは割と多い。何度も何度も治療を重ねて、記憶を消した人だっている。それだけ、人には重くのしかかる巨大な影がいつだって付き纏う。それは死の記憶だったり、いじめだったり、暴力だったり、失恋だったり、巻き込まれた犯罪の記憶だったり。どうしても忘れることができない、消えることの無い記憶。やり直しができないからこそ、なんとかして過去の呪縛から逃れたい。それさえ思い出すことがなくなれば、もしかしたらやり直せるのではないか。その確信が欲しいのだ。


わたしにも、忘れてしまいたいことはある。

共感も共有も同情も同調も。何ひとつして欲しくないもの。だから語らないし、語り出すための最初の一言ですら浮かばない。だから濁す、曖昧なモザイクをかけてみる。「昔のことは忘れてしまったよ」と。語ることも思い出すことも、何ひとつ自分の為にはならないし、記憶は永遠に忘れないだろうし。それを消すことも、きっと私にとっては無駄なことなのだろう。共に生きることしか、できないのだ。きっと。


だから誰かを愛して、愛されることを、求め合えることを〝しあわせ〟だと思えるのかもしれない。

承認欲求とか、自己満足とか、そんな取ってつけたような理由じゃなくて。そんなことすら考える隙がない程に、ただ一人の誰かのことを考えていたいのかもしれない。依存する恋は上手くいかない、とか、一人でも居られないと駄目だ、とか。そんなありふれた教科書のような言葉も、何ひとつ思い出せないくらいに〝誰か〟と一緒に居たいと、願うのかもしれない。


詩人ルートヴィヒ・ウーラントによる「看板娘」という詩に好きな一節がある。

Dich liebt’ ich immer, dich lieb’ ich noch heut’. Und werde dich lieben in Ewigkeit.

〝君を僕はずっと愛していた。今でも愛している。そして永遠に愛しつづけるだろう。〟

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つまるところ、忘れられない記憶とはこの一節の通りなのではないだろうか。過去も未来も今も、変わらない想いだけが、残り続ける。

あなたに人生に残り続けるものが、良い記憶だけになりますように。幸せを祈って。






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