篠井菜央人

大学院生のときにこころが追い付かなくなってしまったひと。 就労移行支援を経て某特例子会…

篠井菜央人

大学院生のときにこころが追い付かなくなってしまったひと。 就労移行支援を経て某特例子会社に就職。 2020年に精神保健福祉士資格を取得。

最近の記事

「研究」と一口に言っても。

新年度になり、どこかの大学のどこかの研究室で、「研究は勉強とは違うよ」と言われている学生がいると思う。私も10年以上前はそんな学生のひとりだった。ただ、その言葉を何も考えずに鵜呑みにしていた自分には、「研究」する力がまだまだ足りなかったのだなとも思う。 「研究」と一口に言っても、実験で仮説を検証する「研究」と、史料を読み解いて解釈する「研究」と、フィールドに出て得られた結果を考察する「研究」は、一括りにはできない。 自然科学と社会科学 いまの仕事で精神保健福祉や障害者雇

    • 大人が大人として読む本。

      『中学生の質問箱 思春期のしんどさってなんだろう? あなたと考えたいあなたを苦しめる社会の問題』(鴻巣麻里香/平凡社)読了。 スクールソーシャルワーカーとして現場で活動する筆者の当事者への想いが伝わる一冊。「当事者に寄り添う」というスタンスなので、理想論だと感じる部分もあるけれど(特に「自分らしくいられる場所」は現在の社会にはないのでは、ということには真摯に向き合う必要があると思う。これは大人だってそうだけど)、それも含めて「大人が大人として」読まなければならない本だと思う

      • 持続可能な勉強。

        先日、簿記3級の試験を受けて無事に合格した。 簿記を受けた理由は、「何か勉強したいな」と思ったときに、会社勤めにとってお金に関する最低限の知識があったほうがよいのではと思ったのと、NPOの経理を手伝っていた経験があったので敷居が低かったから、である(もっとも、商業簿記とNPOの経理は全然違うのだけれど)。 実際に勉強してみて、仕訳の考え方(減価償却とか貸倒引当金とか株主への配当とか)や、BSやPLができるまでの流れがさわりだけでも勉強できたのはよかった。簿記の試験は精神保健

        • 努力や節制の先に。

          先月で36歳になった。年男である。 誕生日を無事に迎えられてよかった、という気持ちももちろんあるけれど、それ以上に時間が過ぎる速さへの驚きのほうが大きい。昨年35歳になったのがつい最近のように思う。 おかげさまで仕事も続けられているし、将棋やピアノのように楽しめることもあるし、読みたい本も勉強したいこともある。今年は忙しい一年になると思うけれど、休むしかなくて先が見えなかった頃には(いい意味で)想像がつかなかった生き方ができている。ありがたいという気持ちと、今まで以上に心身

        「研究」と一口に言っても。

          闇が網膜を灼く前に

          闇が網膜を灼く前に

          ギロンギング。

          たまーに、友人知人から「もう研究はしないの?」と聞かれることがある。研究室にいた頃を振り返ると、そう言ってもらえるのは申し訳なさもあるけれど、とても嬉しいことだと思う。 正直に言うと、「研究」をしたいという想いはいまはない。研究はまず解決したい課題があってのことだし、その課題を検証していくのには、どの分野であれ大変なエネルギーが必要だということは経験上わかっているつもりだ。その過程にたどり着くだけのものをいまの自分は持っていない。 ただ、「研究」はできなくても「議論」をし

          ギロンギング。

          2023年に読んだ本。

          今年は9冊(マンガ・棋書は除く)。 1.教養としての精神医学(松崎朝樹/KADOKAWA) この本のキモは、各疾患の解説よりも精神疾患というものが人類の歴史のなかで生まれたものであることを誰にでも分かるかたちに落とし込んでいるところだと思う。 疾患の解説については、そもそも精神医学が一冊の本にまとめられれば苦労はないわけで。 2.臨床心理学(丹野義彦ほか/有斐閣) 分厚い本だけど、臨床心理学についてはこの本を読むのがいちばんの近道だと思う。各疾患のモデルがわかりやすく解

          2023年に読んだ本。

          「言語化」から少し離れて。

          「観る将」が今年の流行語になった。このように将棋が注目されるようになったのは、棋士の強さや姿勢だけではなく彼らの「言語化」する力も大きく影響していると私は思っている。対局する棋士だけでなくそれを観るひとにわかりやすく解説する棋士がいなければ、楽しめるひとはぐっと減ってしまうだろう。 将棋のルールを知らなくても羽生善治先生の名前を知らないひとは少ないと思う。羽生先生の将棋でのすごさはここに書くまでもないけれど、私はそれと同じくらいに、彼の言葉にする力も評価されるべきだと思って

          「言語化」から少し離れて。

          世界観を問う44問(INFP)

          引用: 回答者:INFP 当たり前ですが、人の生活がより良いものになることを期待しています。同時に不幸をもたらす可能性もあると思っています。謎が解明されることについては、それがプラスになるのもマイナスになるのも課題次第なのではないかと。それらの見極めや科学の成果を人に寄り添ったものにするには、ヒトの熱意や知識や倫理観が不可欠だと思っています。 年齢というより積み重ねた経験によって左右されると思うので、間接的には関係していると思います。「指示をする」は年齢や経験の影響が大

          世界観を問う44問(INFP)

          マイノリティの靴。

          新しい靴を買った。 いままでは量販店で買っていて、選ぶ基準も「価格≧デザイン>機能」だったのだけれど、今回は百貨店の紳士靴売場に行き、シューフィッターの方と相談しながら自分に合う靴を選んだ。 12月になり賞与をいただくことができたというのもあるけれど、これには理由がある。 実は、私は足のサイズがすごく小さくて(今回きちんと測ってもらったら23.5cmだった!)おまけに偏平足である。男性用の靴は24.5cm~というのが多くて、サイズが多少大きくてもインソールをいれてやり過ご

          マイノリティの靴。

          ハッピーエンド。

          SHISHAMOの『ハッピーエンド』は彼女たちの作品のなかでも大好きな曲のひとつだ。SHISHAMOの夏の曲は名曲ぞろいだけど、この曲は3人の骨太なサウンドも、何かが乗り移ったかのような朝子さんのギターソロやCメロのボーカルも、ラストの歌詞の切なさも、すべてが心を揺さぶる。 さて、SHISHAMOに限らず『ハッピーエンド』というタイトルの曲は、いわゆる「ハッピーエンド」という内容ではないけれど(back numberもそうだし、ほかにもあるだろう)、最近になって、たとえ一緒

          ハッピーエンド。

          短歌。

          恋愛が恋愛の名で終わるなら それらはすべてハッピーエンド #今日の短歌

          卵とバニラエッセンス――表現における私なりの「個性」――

          実は、本業のなかで「文章を書く」というお仕事を2ついただいている。詳細は書けないのだけれど、障害者雇用や精神保健福祉に関連する情報を中心に働くうえで知ってほしいことを書いている。 書く仕事をいただけている、ということは私にとって目標にしていたことのひとつで、自分の文章を評価してもらえたということも含めて、とても幸せなことだと思っている。 一方で、実際に書いてみるとさまざまな「制約」があることに気づかされる。 まずは、文字数。具体的な制限があるわけではないけれど、冗長な文章だ

          卵とバニラエッセンス――表現における私なりの「個性」――

          交響曲を聴けなかった私がピアノを始めるまで。

          昨年の終わりごろから、ふと「楽器をやりたいな」と思うようになった。 きっかけは、好きなアーティストのライブに行くようになったり、ライブやコンサートに誘ってくれる家族や友人がいたり、楽器を続けている学生時代の友人がいたり、楽器を習っている将棋仲間に刺激を受けたりといろいろあるのだけれど、「楽器をやりたい」と思ったことに自分自身がいちばん驚いた。音楽を聴くことはあっても演奏することはもう私には縁のないことだとずっと思っていたからだ。 もちろん、吹奏楽やブラスバンドを再開できたら

          交響曲を聴けなかった私がピアノを始めるまで。

          せめて仕事のときくらいは。

          「障害の社会モデル」が浸透してきたのはいいことだと思うけれど(もちろんその先の「障害の人権モデル」も知ってほしい)、 きらきらした眼で「障害は社会の側にあるんですっ」と言われると、それもちょっと……となってしまう。 障害の有無にかかわらず誰であっても、自身のアイデンティティと肉体・精神を切り離すことはできないのではないだろうか。 ☆☆☆ 仕事をするうえで、私は日ごろから周りに、「残業をしないかぎりは自分は障害者ではないと思う」と言っている。もちろん屁理屈なのだけれど、これ

          せめて仕事のときくらいは。

          価値観という名の暴力。

          この文章は、実家に帰っている間に書いた。 会いたい人がいて、その人が健在で、実際に会いに行くことができる。 コロナ禍もあり、会いたい人に会いに行けない人も、もう会うことができない人もいる。 だから、この文章を書いている私はとても贅沢だし、この文章もとても贅沢である。 ☆☆☆ 実家に帰って家族に会えるのは嬉しい。 ただ、以前よりも素直に「嬉しい」と思えなくなったのも事実である。 その理由のひとつは、やはり将来や結婚のことがあるからだろう。 もちろん、家族には本当に感謝して

          価値観という名の暴力。