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交響曲を聴けなかった私がピアノを始めるまで。

昨年の終わりごろから、ふと「楽器をやりたいな」と思うようになった。
きっかけは、好きなアーティストのライブに行くようになったり、ライブやコンサートに誘ってくれる家族や友人がいたり、楽器を続けている学生時代の友人がいたり、楽器を習っている将棋仲間に刺激を受けたりといろいろあるのだけれど、「楽器をやりたい」と思ったことに自分自身がいちばん驚いた。音楽を聴くことはあっても演奏することはもう私には縁のないことだとずっと思っていたからだ。

もちろん、吹奏楽やブラスバンドを再開できたらという気持ちはずっと持っていた。けれど、いまの私にとってはちょっとハードルが高いなとも思う。
まず、管楽器は初期費用も維持費も高い。正直そこまでの経済的な余裕はない。練習も自分の部屋で好きなときに、という訳にはいかない(正しい方法で練習しないとうまくならないことは自分自身が誰よりもわかっている)。そして、合奏となれば自分の体調や都合で簡単に休むことはできない。

……とできない理由をつらつらと書いたのだけれど、これらは工夫次第で何とでもなる。高い楽器を買わなくたっていいし、レンタルすることもできる。いまはサイレントブラスだってあるし、練習も合奏も自分のペースでできるところは探せばあるはずだ。自分のペースで続けることは何ら悪いことではない。
ただ、いちばんの理由は、「合奏」という状況に自分が適応できないだろうということである。

☆☆☆

「合奏」に自分が適応できない、というのは私自身の音の聞こえ方に不安があるからである。断っておくが、これから書くことはあくまで私の場合であり、病気や障害があるひと全員に当てはまるわけではない。

心理学を専攻した人でなくても、「カクテルパーティー効果」という言葉を聞いたことがあるひとは多いと思う。これは「選択的注意」とも呼ばれ、多くの音の中から自分が必要としている情報を無意識のうちに選択することができる脳の働きのことをいう。精神疾患ではこの働きに障害があるという仮説があるのだが、私はこの機能がものすごく弱い。

例えば、職場ではさまざまな音や声が飛び交うけれど、私の場合、隣のひとと話しているときでも、向かいのひとの電話応対の声も少し離れた場所での雑談もさらには複合機の音も全部同じレベルで拾ってしまう。私は電話をかけたり受けることは苦ではないのだけれど、周りで常に電話が鳴っているという状態がとても苦手である(以前、チーム総出で電話をかけたときは本当に具合が悪くなるかと思った)。いまは自覚できているからまだよいのだけれど、注意すべきところに意識を向けるというのは自分自身でも驚くくらいエネルギーが要るのである。
さらに言ってしまえば、音のする方向が判断できない。後ろから声をかけられたと思っても、実際は向かい側から呼ばれていたということがしょっちゅうある。

大人数で集まって合奏ができたら楽しいだろうとは思う。けれど、それぞれが演奏しているというものすごく情報量が多い環境のなかで、必要なところに意識を向けることを長時間ずっと続けられる自信は、いまのところは全くない。

☆☆☆

でも、楽器、いいよなあ。楽器屋さんのショーウインドウに並んだぴかぴか光る楽器を見ると、その想いは一層強くなったし、同時に自分の状況を鑑みて悔しい気持ちになったりもした。

そんなときに、あるものが目に留まった。

電子ピアノである。

その瞬間、「!」と思った。電子ピアノだったら自分の収入でも何とか買えるし、維持費もそんなにかからない(はずだ)。ヘッドフォンをつなげば自分の部屋でも弾くことができるし、何より自分のペースで続けられる。合奏はできないけれど、情報量もそこまで多くないから自分にもできるかもしれない。それに、もしかしたら自分の好きなアーティストの曲を弾けるようになるかもしれない。

……と、さも「いいこと思いついた!」というように書いたけれど、私はピアノの経験は全くない。楽器や合唱の音取りで鍵盤を叩いた(「弾いた」ではない)ことがある程度だし、正しい指使いも何も知らない。そもそも右手と左手を別々に動かすところから始めなくてはならない。簡単な曲を弾けるようになるまでどれだけかかるかもわからないし、その前に挫折するかもしれない。
けれど、それは私にとってはとても魅力的なことに思えた。

☆☆☆

具合が悪いときは音楽を聴くこともしんどかった。聴けるようになっても最初のうちは交響曲のような情報量の多いものは全然だめで、ピアノ曲や弦楽四重奏のように情報量が少ないものから少しずつ聴けるようになっていった。もしかしたら、これらの編成の曲は、「情報量の少ない音楽」を求めるひとが一定数いたからジャンルとして確立されたのかもしれない、とさえ思うようになった。

いまでも調子の悪いときは好きな音楽でも耳を塞ぎたくなることもある。けれど、いろいろなかたちで音楽と付き合っていければいいなと思う。
もちろん、前向きな理由だけではない。学生時代の音楽の思い出は良いことばかりではなくて、理不尽なこともたくさんあった。それをら自分のなかで整理させたいという気持ちは、年々強くなっている。
そのなかで、過去に起こったことは変えられなくても、それらもひっくるめて、音楽も、そして生きることも楽しいことだよと伝えられるようになりたいのだと思うのだ。

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