「言語化」から少し離れて。

「観る将」が今年の流行語になった。このように将棋が注目されるようになったのは、棋士の強さや姿勢だけではなく彼らの「言語化」する力も大きく影響していると私は思っている。対局する棋士だけでなくそれを観るひとにわかりやすく解説する棋士がいなければ、楽しめるひとはぐっと減ってしまうだろう。

将棋のルールを知らなくても羽生善治先生の名前を知らないひとは少ないと思う。羽生先生の将棋でのすごさはここに書くまでもないけれど、私はそれと同じくらいに、彼の言葉にする力も評価されるべきだと思っているし、将来注目されると思っている。羽生先生の『決断力』を読んだのは大学受験を控えていた頃だったけれど、この本は「挑戦」に後ろ向きだった私の姿勢を変えてくれた。将棋や棋士に関する本はたくさんあって、いまでは「読む将」という言葉も生まれたけれど、『決断力』は「読む将」にとってのマストリードであると私はずっと思っている。

将棋において言語化が重要なのは、プロ棋士に限ったことではない。将棋では「感想戦」という対局後に対局者同士が「この手が悪かったように思う」などその対局を振り返る文化がある(ちなみに、おとなりの囲碁では感想戦はあまり行われない)。将棋は先手・後手を決める以外は運の要素が絡まないので、たとえそれが真の正解でなくても自身の敗因を言葉にしようとすればいくらでもできるし、強くなるためにはそのプロセスは避けては通れない。実際に私の通っている教室でも、自身の対局を振り返って説明することはとても大事にされている。

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大人になって将棋を再開して8年になる。ここまで続けることができたのは将棋の魅力そのものだけではなく、先生や仲間など周りのひとに恵まれたからに尽きる。
けれど実は、昨年の11月から今年のはじめくらいは将棋に対するモチベーションにすごく悩んでいた。それは単に結果が出なかったり(アマチュアでも負けが込むのはつらい)体調がよくなかったり仕事やプライベートがうまくいかなかったりというのもあったのだけれど、もしかしたら「言語化しなければならない」という強迫観念が苦しかったのかもしれない。

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何でも言葉にしようとするのは、私自身の良さであると同時に悪い癖だなと思う。そして実際に文章を書いていると、書くことは私にとって大切なものであっても、必ずしも善いこととは言えないと考えるようになった。

書くことをはじめ表現することは、どこか自分を傷つけて血を流すような行為だと思う。血を流すと一口に言っても、毒蛇に咬まれて血を吸いださなければいけないときや悪いものを排出しなければならないとき、検査や採血で血液が必要なとき、献血や輸血の場合もあるかもしれない。状況はさまざまでも自身の身体を傷つけないで血を出すことはできない。

今年一年、文章を好意的に受け止めてくれるひとがいて、本業でも新たなお仕事につながったことは本当に嬉しかった。けれど、文章を書くしかすることがなくて何でもかんでも言語化しようとしてしたら、私はきっとそれに絡めとられてしまうだろうな……と感じた。地に足の着いた仕事があるからこそ、楽しんで書くことができたのだと思う。仕事に限らず生活においても、きちんと食事や睡眠や整容があってからこそなのだろう(もしかしたら、書くことしか手段がなかった古の「文豪」と呼ばれたひとたちはとても苦しかったのかもしれない……とも思う)。

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今年はあえて「言語化」から離れる時間を意識的につくった。サッカーの試合を観にいったり、旅行をしてきれいな風景を観たりおいしいものを食べたり、ピアノを弾いたり。「言語化」よりもその瞬間を「感じる」ことを大切にしたかった。将棋にかける時間は減ったし、その時間があれば強くなれたかもしれないけれど、だからこそ将棋や書くことの大切さやずっと続けたいという気持ちを再認識できた。それでいいのだと思う。

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