ギロンギング。

たまーに、友人知人から「もう研究はしないの?」と聞かれることがある。研究室にいた頃を振り返ると、そう言ってもらえるのは申し訳なさもあるけれど、とても嬉しいことだと思う。

正直に言うと、「研究」をしたいという想いはいまはない。研究はまず解決したい課題があってのことだし、その課題を検証していくのには、どの分野であれ大変なエネルギーが必要だということは経験上わかっているつもりだ。その過程にたどり着くだけのものをいまの自分は持っていない。

ただ、「研究」はできなくても「議論」をしたい、ということを最近になって考えるようになった。理由は3つ。

1つ目は、専門性をぶつける場がほしいということ。精神保健福祉の分野にせよ障害者雇用にせよその周辺の分野にせよ、知識を得ることはすごく楽しいしまったく苦にならない。そして、その知識が自身の考えや経験と結びついたときには自分なりの喜びがある。普段の生活では同じような立場のひととはなかなか会えないので、そういった知識や考えを専門性(プロ・アマを問わず)を持ったひとにぶつけてみたい。

2つ目は、自分の精神衛生上の理由から。これは私の特性なのかもしれないけれど、自分の頭の中に浮かんできたアイデアを自分の中だけに留めておくということは実はとても苦しい。だからnoteやSNSに書いているのだけれど、書いたものを読んでくれたり好意的に受け止めてくれるひとに対してはありがたい気持ちの反面、若干申し訳ない気持ちもある。本当は、大切なひととはもっと明るい話や楽しい話をしたいと思うのだ。
私だって、自分と同じ人間が隣にいて、こんな面倒くさいことばかりを話していたら口を塞ぎたくなるのがオチだと思う。自分はひとりいれば十分すぎるほど十分で、ふたりはいらないのだ。だからといって壁に向かって話す訳にはいかないし、壁から話しかけられたらもっと困る。だから、自分のためにもそういう話ができる場を持つことはすごく大切だと思っている。

3つ目の理由は、上の2つと重なるけれど、議論から何かが生まれるのではないかという期待から。それは人間関係かもしれないし、新たなものの考え方かもしれないし、日常に役立つちょっとしたヒントかもしれない。それはひとりで考えるだけでは生まれないし、何らかの「対等性」(立場・知識・経験など)がある場だからこそ手に入れられるような気がするのだ。

研究室にいて、「議論」をしようと思えばいくらでもできたことは恵まれたことだったんだなとあらためて思う。そして、「研究」はできなくても「議論」ができる場所を探しにいくことなら、いまの自分でもできるのではないか、とも思うのだ。

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