卵とバニラエッセンス――表現における私なりの「個性」――

実は、本業のなかで「文章を書く」というお仕事を2ついただいている。詳細は書けないのだけれど、障害者雇用や精神保健福祉に関連する情報を中心に働くうえで知ってほしいことを書いている。
書く仕事をいただけている、ということは私にとって目標にしていたことのひとつで、自分の文章を評価してもらえたということも含めて、とても幸せなことだと思っている。

一方で、実際に書いてみるとさまざまな「制約」があることに気づかされる。
まずは、文字数。具体的な制限があるわけではないけれど、冗長な文章だと読んでもらえないし、そもそも相手に伝わりにくい。だから回りくどい表現はことごとくそぎ落とされる。実際に書いてみて、文章は「書く」よりも「削る」ほうがずっと難しいことがわかった。
そして、ニーズがある。具体的なテーマが提案される場合もあれば、ある程度自由に書ける場合もあるのだけれど、仕事で書いている以上は組織や誰かにとってメリットがなければいけない。顕在化しているニーズがなくても「空気を読んで」書かなければいけない場合もある。少なくとも自身の主義主張だけをつらつらと書くわけにはいかない。
さらに、――ここが重要だと思うのだけれど――読んでくれるひとと共有できる「事実」や「知識」が土台としてなければ文章は成立しない(相手が知らないかもしれない情報を伝えることも含む)。おそらく書いていることの9割以上はそういった「事実」や「知識」だろう。

けれど、そういった「制約」があるなかで「自分らしさ」が出せないか、と言われたらそんなことはないと思う。私だって、文章を書いている以上、どこかで「自分らしさ」を出したいという欲はある。でも、たとえ9割以上が「事実」や「知識」だったとしても、最後の一文に自分の想いを込めることや、修飾語の選び方ひとつで自身の伝えたい表現にすることはできる。もちろん、それが相手に伝わっているとは限らないけれど、いまの私にとってはそれで十分だし、少なくとも「不自由さ」は感じていない。

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「文章を書く」と一口に言っても、小説を書くことと仕事の場で文章を書くことと学術的な文章を書くこととnoteに自分の想いを書くことは一括りにはできない。けれど、私は文章を書くうえでは、病気や障害の有無や経験のちがいなどを超えて読んでくださるひとと共有できるものを大切にしたいと思っている。「個性」はプリンに使うバニラエッセンスのように数滴で十分だなのだ、とも。

一方で、SNSやネットでの文章や動画を見ていると、「個性を出す」ことと「他人と違うことをする」を履き違えているのではないかと思うことも多々ある。それは表現の方法だったり、興味の引き方だったり、そもそもの題材の選び方だったりする。文章や表現でご飯を食べているひとに対してそう思うことも少なくない。けれどそれは、卵と同量かそれ以上のバニラエッセンスを使うようなものだと思う。それは少なくともプリンにはならない。

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ひと昔前なら、「日本人には個性がない」などと言われたかもしれない。
でも私はそうは思わない。私は、ほかのひとも自分自身も、十分個性のある人間だと思っている。
もし「個性がない」というのが本当ならば、足りないのはバニラエッセンスではなくむしろ卵のほうではないか、とも思うのだ。

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