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書店の歩き方 ある母の2時間

わくわくする場所に行くのは絶対上りがいい。
シンデレラが王子の城を目指した時のように。

ウィーーーン……
エスカレーターに乗って目的地を目指す。
目の前の親子は手を繋いでさらに上の階へと折り返していった。

今日の私はひとり。エスカレーターの降りるタイミングを「せーの」と教えてやる必要もないし「もうかえりたい」とぐずられる心配もない。
マスクの中で思わず顔がにやけた。

もうすぐだ。
大きく開けた店舗の入り口にはすでにたくさんの本が積まれている。
書店―……ここは私の小さな夢の城。

ふぅっと一呼吸してから、スタスタと店に入る。
誰も私を見ないし、歓迎の言葉もない。それがいい。
いらっしゃいませを言わない方がいいのは書店と純喫茶くらいではなかろうか。

まずは雑誌のコーナー。映画で主演を務める女優さんが表紙をジャックしている。パラパラと昔読んでいた雑誌を手にとって眺める。今もその雰囲気は好きだけれど、こんな服はもう着れない。この歳になると何が似合うのか分からなくなってくる。

その隣にある雑誌の方が今は気になる。『子どもと公園コーデ!帰ったらすぐできる時短料理!』ふぅっとまた一呼吸。今日の私はひとり。子育てからは一度離れよう。

旅行紙の棚の前を通り過ぎる。沖縄か……もう長いこと行ってない。ずいぶんお店も変わったんだろうなぁ。色とりどりの花と海がまぶしい中を進んでいく。

平積みされた新刊・話題作のコーナーで足を止める。
資産運用、リスキリング、平安時代、本屋大賞受賞作。どれも気になるタイトルばかり。あ、これ新聞の書評欄に載ってた本。気になってたんだ。
自分でも忘れていた、読みたかった本が目のつく場所に展示してあるところ。書店の好きなところ。

はっ―…!なんと、夏目漱石の『こころ』が和柄カバーになっている!『吾輩は猫である』も『銀河鉄道の夜』も……!まるで着物のよう。思わず手にとってまじまじと眺める。いやいや家にあるし。でもこのシリーズで揃えたら本棚がもっと美しくなる……。こうやって心くすぐるカバーで誘惑してくるところ。書店の好きなところ。


逡巡していると「ママ―!」という声が聞こえた。自分のことかと振り返ると知らない子だった。時計を見るとすでに20分が経過していた。子どものお迎えまで、私がここにいられる時間はあと1時間30分。
ぱふん、と手に持っていた和柄『こころ』を棚に戻す。

さて今日は誰と踊ろうか。
この本を買うぞ、と目的を決めて来ることもあれば、あてもなく、まだ見ぬ素敵な出会いを探しに来ることもある。今日は後者だ。

さらに新刊のコーナーを奥へと歩いていく。気になる本がありすぎる。タイトルも表紙も、どうしてそんなに魅力的なの?

―その中のひとつが私を呼んでいた。手にとり、裏表紙を見てからもう1度表紙を見る。帯の宣伝をチラッと読んで1ページ目を開く。この瞬間、大好き。

一行目に目を通す。…決まり。

パタンと閉じてまた棚に戻す。今日はこの本にする。でも、まだ見たい場所があるから一周してから。

その後もマンガ、実用書、児童書のコーナーまでくまなく回ってからまたあの本に戻ってくる。
「ただいま」

両手で抱えてレジに行く。
シュー、シュルッ。カバーをかけてくれる書店員さんの手元を見る。ぴっちりと本のサイズに合わせてはまっていくカバー。この瞬間もやっぱり好き。

受け取った本を手に帰ろうとする私の鼻に、漂ってきたのはコーヒーのいい香り。そうか、この書店、喫茶店併設だった。

―ここで読んでいかない?
「ダメダメ。子どものお迎えもあるし、帰って家で読む。」
―たまにはいいじゃない。今日は子育てから離れるんでしょ?
「でも他にやることもあるし……。」
―ここで読んだら他のことは忘れて集中できるよ?

頭の中で天秤がゆらゆら揺れている。チラっと喫茶店の方を見る。コーヒーやジュースを片手に読書を楽しむ人たちの姿。
―いい。良すぎる。はっきり言ってこれはコーヒー代以上の価値がある。

本を片手に、コーヒーを注文した。なんという贅沢な時間。
ほんの少しの罪悪感と、この瞬間への喜びで胸がトキトキしている。
カチャンとコーヒーカップを置いてから本のページをめくる。3行目あたりから周りの音が聞こえなくなった。

……ブーッブーッというスマホの通知音で我に返った。
「もう行かなくちゃ。」
夢の時間はおしまい。コーヒーを片付けて帰ることにする。

現実に戻る時は下りがいい。
でも私の手には本がある。この続きはまた夜にしよう。

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