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科学はどのようにひとを幸せにするのか

有益な情報や、新しい学びを求めて、ちょくちょく新書なんかを読む。

最近の私は、「仕事」や「働くこと」、それからそれらに密着して存在する「家庭」「生活」「家族」「ライフスタイル」などに興味を持っている。これらはあまりにも身近なトピックすぎて、素人が客観的に語るのは難しい。だからこそ、大学教授などの有識者によって様々な科学的研究をもとに練り上げられた「知」を求めて、こうした本を手に取る。

最近は、「家族の幸せ」についてを科学的に書かれた本を読んでいた。

結婚のメリットとは何か。出生体重はその後の発達にどのような影響を及ぼすのか。母乳育児のメリットは本当にあるのか。離婚が父・母・子にどのような影響を与えるのか。子を保育園に預けることで母親はどのように変わるのか。育休のメリットは何か。

こういったことが数々のデータとともに検証されていく。それらの研究は、とても有益なんだろうと思う。研究は「将来の社会」のために行われていて、数年後、数十年後、数百年後のより良い社会の選択肢を増やすためにこうした知を積み重ねているんだと思う。

私は未婚で、現時点で子どももいない。故に、私にとっての家族は親・兄弟だけであり、自分が見つけ育んだ家庭は存在していない。だから、こういう類の本もまぁ普通の感情で読めた。(それでも引っかかることはあったけれどそれはまた後で触れる)

そうなると、読みながら脳内にチラつくのは、現在進行形で子育てをしている大切な友人・知人たちだった。

仮に私が、育児中の友人・知人にこの本を薦めるか?と聞かれたら、素直な答えは「No」だった。

それぞれが悩みながら、手探りながらも、答えのない子育てに取り組んでいる中で、科学的根拠のみを手にして「はい、これに載ってるよ」なんて、言えない、と強く思ったのだ。

それは、あまりにもデリケートなトピックであり、人が真剣に向き合っているからこそ、どれだけ客観的な要素を以てしても口を出せない、出してはいけない領域だと思ったから。すでに過ぎ去った母乳期間のことを「実はこうした方がいいらしいよ」とか言えるか?と。今必死で母乳生活を送っている母たちに「そこまで頑張っても意味ないらしいよ」と言えるか?と。(もちろんそんなざっくりしたことだけが書いてあるわけではないけれど)


そこで、一つの疑問が浮かぶ。

科学は、どんなふうに使えば人を幸せにするのだろうか。そして、どのように伝えたら良いのか。



(疑問、2つだった...)

そんな難しい問いに今の私が答えを出せるわけがないと思いながらも、それなりに読みながら考えた。

私の読んだ本の著者は、有名な海外の大学の博士号まで取得されている方で、とても知識のある方なんだろうと思うけれど、その文体や雰囲気はとても柔らかかった。というか多分、一生懸命柔らかくしたんだろうなぁと思った。ズバッと事実を言うだけじゃ読みにくくて伝わらない、ひいては本は売れない、と思ったのかもしれない。

でも、その「柔らかさ」が逆に違和感となって伝わる部分も、正直あった。

例えば離婚の話。妻が離婚を希望し、夫が結婚生活の継続を希望する場合に、夫は妻を「いたわる」行為を選択するだろう、というようなことが書かれていた。

「いたわる」とはなんだろうか?

例えば、として挙げられているだけの話だけれど、何だか「いたわる」という言葉のチョイスに、著者自身の、夫婦生活や家庭環境に対する価値観みたいなものがにじみ出ているような気がした。その気はないのだろうけれども。

もう一つ。離婚は子どもにどのような影響を及ぼすのか、というトピックでは、子の抱える問題は離婚そのものではなく、離婚によって「恵まれない家庭」で育つことが問題だ、というようなことが書かれていた。

じゃあ、「恵まれない家庭」とはなんだろうか?


「いたわる」にも「恵まれない」にも、ものすごく主観的な要素が混じっているように感じた。その言葉の周辺には客観的データや研究結果が散りばめられているのだから、より一層、突然のその距離感に強烈な違和感を持ってしまったのだ。


科学的なことをいかにわかりやすく伝えるべきか、と考えて、文体を柔らかく、言葉をわかりやすく、と、たくさんの工夫をしたのだろう。けれどその工夫の隙間に、著者ですら気づかないレベルの潜在的な価値観が滲み出ていると思った。


なんども言うけれど、この本はとても有益だった。悪い本だとは全く思わない。知らないことがたくさん書いてあった。なるほど、と思うこともあった。だけれども、当事者には辛すぎて渡せなかったというだけだ。もっと言うと、著者が時折小話として入れ込む「自分もイクメンのつもりなのだけれど、でも妻には怒られるんだ、はっはっは」みたいな語り口調はもっと引っかかった。それを全然笑い話にできない人が、これを読んでいる可能性が高いのに、と切ない気持ちになってしまった。はっきり言って、いらないユーモア。


科学なくして、確かな幸せな社会は出来上がらないと思う。よりよい社会にしよう、と思った研究者たちや、それを実行しようと努力した各分野で働く人々がいて、いまの世の中が成り立っている。

じゃあ、これだけたくさんの情報にリーチすることができるようになって、それ故に、情報が誰にどのように届くのかをとても繊細に考える必要があって。そんないま、科学的に判明したことを、どんなふうに生かしたら幸せになれるんだろうか?

確かさと、わかりやすさの狭間で。

それはとてもとても細い道かもしれないけれど、その道を探るのは、とても楽しいかもしれない。もしかしたら、言葉として伝える必要のないこともあるのかもしれない。社会システムの中に、気づかれないレベルで自然に組み込めるのであれば。

感性の試される道。

なんだかそれっぽく書いたけれどわたしには何の答えもなく。ただ、模索しがいがある道だな、と自分に染み込ませたのだった。

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。