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東京にも、あってもいい

私には、「ふるさと」というものがない。

幼い頃から転勤族で、生まれたところは滋賀だったけれど、生後1ヶ月で初めての引越しをし、そこからは2年おきくらいに全国各地を転々として、今住んでいる東京に定住し始めたのは、小学校5年生から。

でも中学受験をしたから小学5年生・6年生は勉強漬けの日々だったし、放課後に地元で遊ぶ、ということもせず、全くもって地元のことを知らないまま過ごした。そんな調子だったから、小学校で仲良くなった人もいなかったし、今連絡先を知っている人も1人もいない。要は、地元だけど、地元じゃない、みたいなもんだ。

中学校へは、電車で1時間かかる私立の学校へ通い、そのまま高校に進学し、大学も東京、そして就職したのも、もちろん東京。


昔、パリに旅行に行った時に驚いたのだけれど、「東京」ってめちゃくちゃデカい。同じ都内間の移動でも電車で1時間以上かかる場合もあるのに、パリは頑張れば徒歩でまわれてしまう。ああ、東京ってでっかいんだな、そりゃあ「ふるさと」を東京に感じることができないのも無理はないか、と、その時思ったのを覚えている。


ふるさとがない、地元がない、というのは、楽な時もあるけれど、寂しい時もあるものだ。「地元の友達」という言葉に、憧れを抱く。あー、なんか、私にはない関係性だなー、と。

私にとっては、住んでいる土地に帰ったところで家族しかいないのが普通だ。それしか知らないから家族がいれば十分なんだけど、そこに「幼い頃から知っている友達」とか「小さい頃、よくしてくれたおばちゃん」とかがいたなら、それはそれで楽しかったのだろうなぁ、とも思う。


小学校5年生の終わり頃、いじめられたことが原因で転校をして、隣町の小学校に通うことになった。引っ越して1年足らずで、家のすぐ近くにある小学校に通わなくなった、ということだ。よくよく考えると、「地元の友達」なんてできるはずもない。

ただでさえ中学受験の塾に通うために毎日のように電車に乗っていたのだけれど、ついに小学校にまで電車で通うようになった。隣町だからたった1駅だったけれど、毎朝、通勤電車に揺られて、一人で。

私は早熟だったから、その頃からすでに158cmくらいの身長はあったし、見た感じの「心許なさ」はなかったと思う。たぶん、気がつくタイプの人が見るとしたら「私立じゃない(制服を着てない)のに、なんで電車で通学してるんだろう」ということくらいだと思う。

家の最寄りの駅のキオスクで、私は2日に1回くらい、ラムネ味の飴を買っていた。今でもパッケージを覚えている。メタリックな水色で、四角くて、噛むとシュワシュワするやつ。それが大好きでたまらなくて、学校の行き帰りや、塾に行く時なんかに、お小遣いのうちから105円を取り出して、買っていた。

そのキオスクのおばちゃんは、私の顔を覚えてくれていた。一人で赤いランドセルを背負った女の子が毎朝、毎晩電車に乗ってどこかへ行っていたのだから、目立っていたのかもしれない。

キオスクに立ち寄る度に、笑って話しかけてくれた。「寒いねぇー!」とか「ラムネのやつ?あるよ〜」とか。私は大して気の利いたことも言わず、たぶん普通に飴を買っていただけだと思う。その辺が、上手くなかったから。

今思うと、そのおばちゃんは、私のことを見守ってくれていたなぁと思う。毎日、毎日。

今はそのキオスクはもうなくなってしまって、飲み物の自販機2台と、新聞の自販機1台に生まれ変わってしまった。前を通りかかると、時々あのおばちゃんを思い出す。顔はあんまり覚えてないけど、雰囲気はなんとなくわかってる。


政策や子どもの教育についての話を聞くと、「地域の力で」とか「大人たちの見守りが」とかいう言葉をよく耳にする。正直「地域」というものからことごとく離れて育った私にとっては、上滑りな言葉だなぁと思っていたけれど、たぶん、そのおばちゃんが私にとっての「見守り隊」だったし、そのキオスクが「地元」であり「地域」だったのかもしれないなぁと思う。

言葉だけを聞くと上手く想像できないし、耳触りが良いだけに聞こえるけれど。見守ってくれる人がいるっていうのは、たぶん、大切なことだ。何をするってわけでもなく、ただ、見守っているだけ。子どもの時は何にもわからなくても、こうして大人になってから、感謝の気持ちが生まれてくるものなんだ。

そんなところが、ここ、東京にもあればいいな、と思う。

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。