yokohama_hidamari神馬幸子

横浜市で小さな一軒家を借りた小さな事業所「スペースひだまり」 新しく『屋根のない長屋』…

yokohama_hidamari神馬幸子

横浜市で小さな一軒家を借りた小さな事業所「スペースひだまり」 新しく『屋根のない長屋』たぬきち商事を始めています事人とつながって、大きく手を広げ 仲間と共に そして、私の事、会社を立ち上げた事、認知症の事 長屋の事…生きる倫理、哲学、リアルをお伝えしたいと思います(#^.^#)

最近の記事

想像しなかった孤独

まだ昭和40年代の日本は 「復興」の 真っ最中だったのだろうと 震災後の復興を見て感じる 戦後20年の日本の働き盛りの 生活は、どんなだったのだろうか 例えば昭和5年生まれは 終戦のとき 15才 この先、学ぶぞ働くぞと 力を合わせだしたのは いつからだったんだろう どこで、誰と終戦を迎えて どんな環境の中で暮らして 15才から成人して行ったのか 昭和5年生まれは 今、令和6年では94才 昭和の戦後から 昭和を駆け抜け 定年を迎えた時には 平成に突入 有る意味自分の

    • 残念な称賛と本気の労い

      誰もが本音で話すことをしない時代になっていることに気付かされているこの頃 皆さんは、その事に気付いていますか? モラハラ、 パワハラ それによるメンタルの崩壊を訴えられるので コンプライアンス重視が 一番大切な世の中に… いつからなんだろう? 間違えていても 誰にも怒られない 指摘されない だから 間違いに気付かないまま 間違えた称賛を本気にして 間違えたまま育つ社会人 かたや、本気で取り組んだこと 社会の中で有るべきを追及し やり進めている人への本気の労いも 無く

      • 社会の変化は加速していた

        3月に入って 様々な人と会うことが更に多くありまして 何だか気忙しい時を過ごしています そんな中「止まった状態で生きていると 本当に大変」と感じたことがありました。改めて書くことではないのかもしれませんが… とある、場所で出会った 40代半ばの方が 私生活の話をしてくださいました 「下の子が中学を卒業するんです」 中学の話し、高校受験の話し、そして高校に行っても部活を続ける話しなど 楽しそうに話している姿が とても素敵な笑顔でした そのなかで、 10数年で 中学校の部活

        • 社会福祉士の学びは実践と学問共に

          40歳過ぎて介護の資格を取り デイサービスで働きはじめたとき 今の自分を目指していたか?と 思うと、全く思っていませんでした 何なら介護の資格を持って 介護現場で働き続ければ 身体さえ壊さなければ ある程度の年齢まで仕事に困らないだろうと思ったくらいでした 初任でパートで働いていたデイサービスは三年半で辞めて ケアプラザへ そこには、ケアマネさん 包括さん 沢山の職種の方が居て 日々の仕事をされている姿に刺激を受けました 本当は、資格なんて要らない 現場が何よりだし

        想像しなかった孤独

          様々な思いは生きてきた日々の線上に

          先日、仕事関係の方々と飲みました 横浜橋商店街の近くの町中華店で 久しぶりのビールは 胃に染み渡りました (今日の胃カメラの検査は悪性ではなかった~良かった) 生きている意味も 働く意味も 人それぞれだねぇと 思うような話を永遠と語りました 今、在る自分は 生きてきた道の延長線上にあり 自分の潜在意識とか人格を 客観視することなんて本当に 難しいのだから 他人が他人の 意識改革をするなんて 本当に難しい 例えば 仕事上よく触れる高齢者 昔、若い頃に見えていなかった社

          様々な思いは生きてきた日々の線上に

          ?困ったら行政が何とかしてくれる?

          本日は、春分の日 午後から 友人と 伊勢佐木町→中華街へと ブラブラ 不二家のペコちゃんにご挨拶してきました 横浜の古い商店街の代名詞に なってきた伊勢佐木モール ビルも古くなってるなぁと眺めて歩きました と、その前に 出掛ける前に、一仕事してきたのですが まあ、やはり この先の 介護保険サービスの存続が 不安になる様な 団塊の世代の一部の方の認識 「困ったら区役所に言えば何とかなる」「無料なら聞いても良い」 今まで 地域住民への意識に対して 地域包括支援センター

          ?困ったら行政が何とかしてくれる?

          50代60代なら、「明日は未来」を考えるに遅くない

          子どもの頃の事や 親の事、出逢ってきた高齢者のことを書いてきましたが ここからしばらくは 自分の未来 自分の年代の未来を どう考えるかを書いていこうと思います その前に 少しだけ 今の80代や90代が 現在自分が 置かれている社会環境を受け入れられない事に対して現役世代が 「頭が固い」とか「この時代仕方ない」などと 言って 極端に言うと 何とか言いくるめようとして 現代の社会に合わせないのは駄目だと伝える事なんて多く見かけます しかし、90歳の定年時は30年前 ちょうど平

          50代60代なら、「明日は未来」を考えるに遅くない

          社会構成主義に出逢わなかったら

          夕方の 雲が 龍のようでした 今年は辰年なので 意識したのかな さて、先日 私が社会福祉士の 資格を取得してから 更に学びの 場に参加して出会った方と 初めてお会いする機会がありました (学びの場は 全てオンラインで お会いする機会がなかったのです) また、学びの機会に導いてくださった方もご一緒で とても充実した時を過ごさせて頂きました 社会構成主義の考え方は資格取得の頃から「やっぱここだよね」と深く学びたい所でしたが、学びの場での初回に社会構成主義について話される内容

          社会構成主義に出逢わなかったら

          2024年初投稿

          あけましておめでとうございます 大きな地震が、災害が起きました 能登半島を始め被災された地域の皆様お見舞い申し上げますm(__)m 今のところ直接には募金しか手段を見いだせずに居ます…。 そして、昨夕の羽田空港での大事故にも驚きを隠せず 亡くなられた方々を思うと悲しみしか有りません。 地震の災害に遭われた方、事故に遭われた全ての方の心理状況に対しても どなたかが 寄り添ってくださっていることを心から祈ります。 2024年の幕開けに、起きた大きな出来事に対して ひたすらに

          社会構成主義を実体験で実感して行く必要性

          「社会構成主義」最初にこの言葉を聞いた頃 、なんと難しい言葉なのか 本を読んでも 文章だけでは 読んだことを自分の実践に当てはめたり 自分の言葉にしていくことが難しいと思いつつ 対人援助の職として絶対的に必要な学びであるために 結構な時間悩んでいました 悩んで来た中でも、様々な方々のご相談をお受けしたり、デイサービスとして、家族代行の仕事として、社会福祉士の学びをして来ている者として出会ってきた事例を考えれば考える程、ここ最近 赤裸々過ぎる程にnoteに書いてきた 実の父母

          社会構成主義を実体験で実感して行く必要性

          きっと、そんな事だったのかも

          実父の 暴言やギャンブル癖、借金…その他諸々の 目立つ悪事の影にすっかり隠れてしまっていたけれど では、なぜ、実父は そんな行動になり 結果多額の借金をし工場を潰し家族と別れ出ていったのか 『実父への影響』何が有ったのか いまでは、母には 発達障害や精神疾患が潜んでいることに気づいている私ですが なんなら、ホントにここ数年の気付き… 父が家に居たくない、パチンコや競馬場に通い 酒をのみ借金をするような生活をしたのは 実父の育ち…雪国での、貧しい暮らしから 都会へ出てき

          きっと、そんな事だったのかも

          憂鬱と夕暮れ症候群

          誰にだって「このまま、起きたくない 何だか 身体がダルい」 そんな時は、有って 1日グダグダで 休日を凄したり したら、夕方になっても 起き上がれないなんて事は、 あると思う 今となっては 休日なんて 殆ど無い生活だし 生甲斐持って生きています お陰様です。 それでも「あー、10日位 入院でもして なにもしない なんて ならないかなぁ」って思ったりする深層には憂鬱になる気分障害の他に育まれた夕暮れ症候群が存在している。 私の夕暮れ症候群は わりと、小さい頃からで 母親と

          憂鬱と夕暮れ症候群

          心を温めてくれる人は居たんだろうか

          つい、数年前まで 「あんな父親なんて居なくて良かったし、一生会いたくない」 そう思っていた 実父への 憎しみしかなかった感情は 私の幼い頃からの 1つの側面からしか見てなかった (母親の苦労と言う側面から見た悪い奴と言うバイアス) 実父の虚像に向かったものだったかもしれないと 生きている間に再開できず 亡くなってからも知らされず 今に居たって感じる、この空虚な感じは何なんだろう 死んだことを実の娘や息子に知らされない人生って どんなことが起きて どう暮らしていったのか 誰か

          心を温めてくれる人は居たんだろうか

          昭和13年生まれ青年の頃

          想像でしかないけれど 昭和13年 秋田県で産まれた男 18歳で 上京 昭和33年の東京は 映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を、思い浮かべる 東京に何を求めて 上京したのか きっと 戦後の雪国の町から 戦後の大都会へ 胸踊らせての上京 そして、苦労して働き 得た技術 私が物心ついた頃 その男(実父)は 町工場の経営者になっていた いつも煙でこもる 下流の空 川岸のへどろ 甘い臭いのお菓子の工場の臭いを 思い出す 実父が亡くなってから 取り寄せた戸籍謄本を見る

          昭和13年生まれ青年の頃

          ヘドロの川岸と 鼻くそラーメン

          今年の夏は 記録的な暑さが続き もう、みんな、仕事より 自分の身体を大切にしてくれと 思いながら 何とか乗り越えました そんな8月なのに、暑さのなか 唯一 仕事以外に楽しんだ 川崎フロンターレの試合 等々力陸上競技場に三度足を運んだ 川崎フロンターレは 地域密着の イベントも随時開催していて ある時「川崎のソウルフード タンタンメン」のイベントが🍜 暑すぎたあの日 スタジアムで タンタンメンを食べる気力はなく 🍧かき氷を食べながら 空を仰いで居た時 ふと

          ヘドロの川岸と 鼻くそラーメン

          実父への思いの変化

          こんばんわ 皆様、本日もお疲れ様でした 先日久しぶりに ミスド食べました 初めて行った 高田馬場のミスドで まさか、50年近く前の話をする機会が有るとは さて、実父とは 47年前に生き別れ (衝撃の話ですみません) 彼の事がキッカケで私の 子供時代は なかなか壮絶でした しかし、数年前、その実父が 15年くらい前に亡くなって居ることがわかり、取り寄せた戸籍謄本を 見るに 読み込むにつれ 実父の しくじりには 様々な 原因があったのではないか?と 思うようになり 私は勿

          実父への思いの変化