恐れを、恐れの局面からは乗り越えられないという気づき

私は自分の人生の中で、そうせざるをえなかった強い強い願いを持ち、一般に信じられている常識とは異なるものの「ごくたまにそういう体験をしてる人はいるね」と認識されているような現象を引き起こしたことがある。
それまでの過去の蓄積であるとか、特定の物事について信じられてること・自分が信じてきたことのすべてを帳消しにできる体験。
劇的な「治癒」はそれに該当する。

その経験をしてもなお、人生の全部の分野に今の私がそれを適用できているとは言い難く、そうした治癒または「奇跡」と呼ばれることのある現象の源、つまり根本原理への確信は持ちながらも、私自身それを無差別に適用できるようになる道の途上にある。

完全にこれを習得したならば、少なくとも自分の人生において、ある分野には適用できる原理がある分野には使えないということは起こらない。
「すべてが」その原理の対象になるからだ。

私のように、自ら実体験を持つものであっても日常的に忘れてしまうものの見方がある。それはまるで「目を覚ましていよう」と思ってもいつのまにかうとうとして夢の世界に入っている……という感じだ。
目を覚ましていたいと思うなら、そのことに意識的にコミットする必要がある。まず、「目を覚ましていることを覚えていよう!」という意思を自分の中に据え置かなければならない。

これに関しては、私の表層で「もうどうでもいいや」「離れたい」「普通でいい」などと投げやりに思っても、私の奥底では「必ず目覚めていよう」と決めており、結局はその力に負ける。いわば自分の魂が、強い意志でこれをやり遂げると決めている。

そして自分が「何かを恐れている」「見るべきところがある」と気づくと、私の中では激しくベルが鳴る。その呼び鈴を無視することはできない。恐れは、幻想に入り込んでいる(夢の中に眠り込んでいる)合図だからだ。

近頃、私が自身の恐れの堆積に気づいた分野があり、それを見つめる中で、以前奇跡的な体験の直前に経験したのと同じ「なじみのある気づき」に再び出会うことになった。
その気づきとは、

「私はこの恐れを、恐れの局面からは乗り越えられない」

ひとつひとつが異なる、別々の形態や表現に見える恐れ。それらにその都度向き合っているつもりでも、本当の解決はない。
つまり、恐れのある平面上(同じ世界)で扱い続けても解決はしない。

その方法で何かができると信じているときの自分は、夢を見ている。
一個解決してもやがてまた、別の恐れが顔を出す。
それにまた、恐れとは「程度・度合」の問題でもない。

こうした気づきは、私にとっては「なじみのあるはずなのに、やはり忘れていた視点」であり、この機会に記事においても、改めて説明をしよう。


明瞭に異なる二つの世界

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