イメージの自由を促す文章・創造・創作ノート

学生時代までは文を書くのと同等かそれ以上に漫画を描くことが好きだった私は、もう長いこと漫画を描いていないが、近頃短編小説を書くようになって、文字だけで表現することと絵があることとの違いに思いを馳せていた。

特に、今私が書く作品では意図的に具体的詳細をあまり入れないことにしているので、より一層そのことを思ったのだ(作品は★小説・物語★マガジンに収録中)。
なぜそうしているかは、◆「創作の笹舟・Mission Inseparable」という記事で語った通り、私の書いているものの奥に存在する狙い・目的に関係している。

この記事では、
■文章による創作を通して私が気づいたこと
■今では自分がほぼ読まなくなった「フィクション」のストーリーをあえて書くことで何がわかったか。どんな面白さがあるか。
さらには、
■そこから気づいた、霊的存在の創造(人生や世界)への理解。
……などを語る。

言葉が持ち得る自由の余地と、別の次元を見る力

人物や風景の描写が詳しくあって、読めばたちまち絵が浮かんでくる……という小説を好む人もいるだろうが、私の作品では読む人に明確なイメージを指定しないように気をつけている。あえて条件を曖昧にして自由度を高くし、それぞれの中でそれぞれの思うイメージが生まれることが望ましい内容だからだ。

たとえば、登場人物の性別をどちらとも取れるようにしておくことがある。外見や服装、人物像なども不可欠な部分以外は語らない。これには後述する狙いがある。

冒頭に書いた通り、漫画を描いていたことのある私は、絵に表す時点でそうした情報はある程度含まれてしまうので、同じことを漫画でやろうとしたら無理なんだろうなとふと気づいた。そして改めて、絵を用いずに文字だけの表現を選んだ場合に何ができるのかを考えてみた。

通常、画像を見せるということは、たくさんの言葉を紡ぐよりも多くの情報を受け渡せる。想像してみよう。一枚の絵や写真にあるもののすべてを言葉で説明しようとすれば、延々と長い文章が必要になり、それでもなお情報が抜け落ちるかもしれない。
これを言葉による表現の「デメリット」と捉えることもできれば、きちきちに指定せず余地を残せて遊べるという点で「メリット」と捉えることもできる。今の私にとっては後者だ。狙いにマッチしている。

私の狙いは、ちょうど眠っている間に見ていた夢の記憶にアクセスするときのように、私の作品を読みながら読み手の意識の中で起こるイメージに自ら親しみ、手を伸ばしてもらうことだ。
それは書き手である私の見ているイメージと全く同じでなくていい。その人が「自分バージョン」のものを作ってくれていい。ただし、湧き上がる様々なバージョン、様々なイメージのホログラムを生む「芯」はひとつであり、それを提供できればいいのだ。

ところで、夢の世界というのは本当はこの現実に遜色ないどころかそれ以上に鮮明なものだが、夢の情報にアクセスすることに慣れていなければ、印象はぼやけ得る。
私たちはすべての物事に対して、日常を生きているのと同じ「ひとつの力」を使っている。夢の記憶はもとより、別の次元、別の現実にアクセスするということはすべて、ただ「意識をどこに向けるか」の違いにすぎない。

つまり、イマジネーションを用いることやイメージを想起することは、別の次元にアクセスする能力そのものなのだ。

夢と異なるルートからやってくる創作のアイディア

フィクションの創作に取りかかってから、私が意外に思っていることがひとつある。コラムとして書いていた私の過去記事内では、自分の見た夢を度々取り上げているのだが、フィクションの題材には自分が見た夢を用いることが今のところないのだ。

もちろんこれからそうする可能性はゼロではないし、夢で見たもの、体験したもののエッセンスを含めることは出てくると思うが、現時点では私が創作に用いるアイディアは、夢とは異なるルートからやってくるとわかった。

自分の意識の中からやってくるという意味では同じルートと呼べるが、それは存在し得るものすべてがそうなので、ここでは私の感じている違いの方に注目したい。

夢が意外と作品にしづらい理由

私は生まれながらにして鮮明な夢をたくさん見ては記憶している性質だったので、その話を人にするとよく「それを小説にしたら」「作品にしたら」と言われたものだった。
けれども案外、夢の世界は作品にしにくい。その理由のひとつは、夢の素地が私的な設定に満ちているからで、自分という人間をある程度説明しなければ意味が成り立たない世界になっていることが多い。

一方で、今のこの私と思っている「個人」をはるかに超えた設定の夢を見ることもある。それらは自分では考えつかない素晴らしい映画のような内容であることが多いが、これもまた作品にするのが難しい。
なんというか規模が壮大すぎたり、夢では複合的に理解できることがこの世の表現、つまり言葉や絵などの表現には閉じ込め切れなかったりするのだ。何とか表現したとしても、伝えられる情報が少なくなりすぎて、かけらだけを含んだ劣化版みたくなってしまう。

だから、私がコラムで夢を取り上げるときには、読み手にも伝わるであろう夢の一部のみを切り取り、十分に描写することを心がけ、さらには最低限の解説も入れるようにしている。

こんなわけで、夢の中で体験したことのかけらを作品に持ち込むことは可能でも、夢そのものを作品にできるのはけっこうまれなのだ。

フィクションはフィクション、その醍醐味とメリット

そして一応断っておくと、小説であれ物語であれ私が創作として出す内容はどれもフィクションだ。小説を書く人がよく勘違いされがちなことだと思うが、たとえ作者のカラーや持ち味がにじみ出ているにしてもフィクションはフィクション。

一例として、最近公開した短編◆「幸せ温度測定」を挙げてみよう。ストーリーの中で「幸せ温度」というのが出てくるが、私は作中の人物・早羽さんと違い、幸せ温度が零下に至る経験を余裕でしていた人間だ。それゆえスピリチュアリティーの探求、鍛錬がはかどったと言える……という風に、自分のことを書くとなれば一からまるで違うストーリーが出来上がってしまう。

でも、だからこそ、現時点で私が感じている創作の醍醐味がある。

醍醐味のひとつは、自分の書きたいテーマを定めつつも自分ではない人物の目を体験できて、しかも、それによって思いもよらない展開まで見ることができるということ。
書きながら、あれっ、こうなっていくんだ、という発見がある。それを作者も完全には知らないことがあるのが面白い。

私のもとへやってくる「枠」に忠実に、ある作品の世界を書き出してみると、中にいる人たちは動き出すのだ。泳ぎ出すという感じだ。けれども私が枠を作る作業をしなければ、その体験はできない。

これをたとえて言うなら、広い広い海洋があって、そこに枠組みを沈めると生き物たちがその枠の中を通過していく。自由に泳ぎ回っているものたちの一部分を、枠という固定された舞台装置を作ることでフォーカスし、観察し、描写できるというわけだ。

創作のもうひとつの醍醐味は、「発信する」視点からのメリットだ。

私の書くものでありながら、自分とは違う人物を登場させるということは、ただの私でいるとシンクロしないような人々ともシンクロできる可能性がある。ある人が一見、私という個性とは共振することがなさそうでも、作中の人物とは共振するかもしれないのだ。

この点において、私と様々な点で異なる人物が作中に現れることは、できることが広がるということになる。自分が「この私」の人生だけにフォーカスしていたならばあまり接点が生まれない人たちにも、作品の中に登場する人たちのおかげで届く何かがあるかもしれない。

そして、このことは、霊的視点からの「創造」を理解するのに非常に役立つポイントだと私は思った。
霊的視点からの創造とは、あなたの人生そのものや経験する世界全体のことを指す。

霊的存在の創造の目的と、テーマを定め、たくさんの人物と経験を生み出すこと

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