創作の笹舟・Mission Inseparable

 自分の内にある無形のものを、感触としてはつかめるものの細部はどのような様子なのか特定できないとき、とにかく形のレベルにアウトプットすることで「これだったのか」と確認できることがある。姿のないものに姿を与え、鏡をのぞき込むようにその具体的な様をしげしげと見て、はぁあ、こういうものでしたかと自ら納得する。
 執筆の内容を変え、小説や物語といった創作に比重を置く宣言をしてからの私はそのようにして、書きながら現れてくるものを見ていた。(関連記事◆「表現と物語の持つパワーを信頼する」) 

 それまでnoteで書いてきた主な内容はスピリチュアルなコラムで、それらは読む人が実用できること、自身の人生に応用できる要素を含むことが定番だったから、自然な流れあるいは直観的に自分が「今」、小説などの創作を始めるとわかったとき、果たしてどんなものになるのかはことのほか想像がつかなかった。
 自分自身の過去の印象や思い込みから枠を設定して可能性を狭めることはやめようと決めていたので、創作の過程で何が出てきてもまずはそれに忠実であろうと意思を固めていた。
 コラムからそうした内容へ移行する間のブリッジとして、かなり昔に執筆し公開していた物語をnote上にリバイブさせながら、今の自分は何を書くのか、まるで昔のLong-distance callでオペレーターに通話を繋いでもらうのを待っている人のように、繋がり次第いつでも応答できるよう耳をすまして待機していたのだ。

 結果として今は3本目の作品に取りかかっている。正確には並行して複数のアイディアが来るのが常なので、それぞれ別の作品になるものを書き留めながら進めるのだが。(作品を収録しているカテゴリーは★小説・物語★のマガジン)
 どうなるの、何を書くの、と私自身も私の手を通して紡がれる文を見つめながら、「岩戸開き」「とりかえばや」の2編は生まれた。どちらも日本の古典風のタイトルになったのは特に意図してのことではないのだが、私が人生のある一時期に古文を好きだったことと無縁ではないだろう。

 そうして新しい形での「書くこと」を軌道に乗せてわかったことは、小説などの創作といっても私はごく一般的な意味での日常や人生をテーマにすることがなさそうだということだった。自分がそこに強い興味を持っていない以上、創作の世界でも情熱は向かわない。それに私が無理にそういう題材を選ばなくても、これを上手に書ける人たち、楽しんで作品に活かせる人たちがたくさんいることだろう。
 では、創作という舞台で何をしているかというと私は、「同じ」なのだ。私の中身が同じだから、創作ですることも同じ。

 つまり私は、意識を拡大すること、見えないところに目を向けること、「なじんだ現実」に視野狭窄するのではなく、あなたという存在の物理的な側面を超えたあり方に目を向けることを作品を通して体験してもらいたい。ほんの少しでもその息吹を提供できたらいいと思う。
 これまでのコラムのように直接的な伝え方でなくとも、様々な形でそれはできる。直接的でない分、かえって思いがけないところに届く可能性もある。ああそうか、結局のところ「Mission Inseparable」。私は何をしていても同じ活動をしているんだ。これは切り離せないことなんだと悟った。
 私たち皆の内にあるスピリチュアリティーを思い出すこと。そこと繋がって生きること。私たちが「ひとつであること」を思い出したまま人生を歩めること。心の平安はそれにこそ、根差していること。

 これに沿った創作のアイディアは、笹舟が小川を静かに流れてくるように、ひとつ、またひとつとやってくる。見えない世界から見える世界へ辿り着くべく、私の元に送り出してくれるものがいる。
 私はそれをそっとすくう。
 この世界で形を持たせて、どこかにいる必要としている人に届けるために。


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