【地球人の擬態をといた者の独白】中間領域および人間部分の、自分にとっての探求

多くの人がこのタイミングで2023年の振り返りを行っていそうだが(笑)、2023年の年末ということを抜きにしても前回の記事(◇「ぬぐえない違和感と自発性【私の立場・対等な人であること】」)しかり、今自分の中で進行していること、今年の途中から顕著になってきた気づき……が一体何なのかということを私は精査していた。
もちろんわからないところもいっぱいあるのだが、自分の感じていること、思いなどを手がかりに「見る」ということを続ける習慣があるのだ。


真理を会得した後の無方向性に、解決の光

すると、浮上してきて「なるほど」と思うのが、今年後半のライブ配信でもテーマに繰り返し取り上げた「中間領域」「人間部分」というキーワードだった。
どういうものかはこれから説明するが、私が直近の数年間、普遍の真実とか真理への認識を深めてもある種のぽっかりとした「無方向性」を感じていた理由がわかったのだ。これは大快挙。

その無方向状態を感じていた当時から、「この人生の自己」の個性の部分をもっと使っていくことが必要なんだろうとかある程度のヒントは自分なりにつかんでいて、それを記事にしたり活動に反映させたりはしていた。
それでも、根本的にその「無方向性」が解決できていたとは言い難かった。

ただはっきりしていたのは、一般的に「スピリチュアリティー」を認識していく道と捉えられているものの中で「一定のゴール」に見える地点があったとしてもそれで終わりじゃない、私たちは「創造主の動的な側面」として、終わりなく探求・創造していく……このことは以前から答えとしてわかっていて、「では次は?」というのが私の知りたいポイントだった。

そこへの答えがつかめたようでつかめない、そんな時期がわりと長く続いたと言っていい。

この世の多くのものに昔ほどの積極的な関心は維持できなくなっていたので(といってもアンバランスを指すわけでなく、日常生活に必要な関心は適度に持てている)、自分の内で本当によろこびが湧いてくるテーマはというと、地球上の自然、人間以外の生き物たち……ということで、そのあたりに見当をつけてウロウロしていた。
今でもその分野への関心は変わらずで、生き物たちを見ているとよろこびや知りたい気持ち、愛、深い尊敬が湧いてくる。これ以外何もいらないと感じてしまうくらい……。
それでもなお、自分の人生として考えるとなぜだか「こういうことだけしていられたら幸せだろうなぁ」という感想がいつも生まれてしまう。
そこへの関心だけに特化した自分というのは、「この人生での私」にとっては甘いお菓子でできたファンタジーみたいなものなのだ。言い換えると、そこだけじゃない「自分のやること」があるんだという認識だよね。

地球人の擬態の奥にある自分の感想や考え

こういった不意の、自分の魂から直に出てくる感想に直面することが多々ある。どこかで私はそういうことは全部重々承知で、自分の「地球人としての擬態」を保っているという感覚もある。

いつだって「地球人を体験中の私」を通して、地球人を知るための実地訓練や実験を行っている感覚、どんなに地球人仕様の私が「もういい」とすねる気持ちを生んでも、そこをほぐしてケアして、体験したいことを体験するんだという固い意志。
その「体験したいこと」は私の場合、非物質的な神秘体験などに分類される何かじゃない。人間の体験と、人間の心模様を通した世界にあるのだ。
さすがにこのことは自分でずっと知っていたので、精神世界・スピリチュアルの分野で「その逆の方向の望み」を持つ人が多かったことにはだいぶ戸惑ったものだ。

「自分を地球人ではないと知っている私」は、それをむき出しにすると大変不便なので(少なくとも自分の人生経験上ではそうだった)、この感覚を受け入れてくれるごくごく一部の人たちの間でしか本当の本当のところは出さないようにしてきた。
本当のところの私が思っていることは、地球人の性質や、地球世界の現状を経験を通して理解した上で、「理解によって生まれた優しさフィルター」をかけてから発言する。

もしこの「理解によって生まれた優しさフィルター」がなかったら、人の心にふれることも、自分自身の人間部分の様々な思いや感情にふれることすらも難しいのだろうと思わせる。それは、たとえ何かが的を射ていたとしても、その情報だけ伝えられたところで人は共感しないし、本人の理解を通した「会得の感覚」も生まれないものだからだ。

だから私は「この人生の自己」を使うことで、この人生の自己として様々な感情も考えも自分に通すことで、地球の体験を理解している。
もちろん全部の体験を網羅することはできないのだけども、この人生の自己が広くものごとを眺める視野を身につければつけるほど、地球世界の体験の中での「届く範囲、対応できる領域」が広がるというわけだ。

これらの前置きを知らせた上で、「中間領域」や「人間部分」と私が呼んでいるところの探求が現在そして今後の私の焦点になりそうだという話。

自覚のもとで人間部分の自分を使っていくこと

ここで中間領域とか人間部分と表しているのは、私たちに共通の普遍の真実という「究極のところ」と、私たちが現状「物理的な体験」と考えている「この現実」との間を指す。
間といっても、無限にあるそうした領域・体験のグラデーションの中で人間の経験に密接に関わっているところを私は意図してこの言葉を使っている。

これは一般的には自分たちの「心の世界」に近いという感じか、自分の心の世界と認識はできなくても何か空想とか夢の世界には属する感覚になる領域と言えそうだ。

私の人生の流れを振り返ると、今までだってそこにフォーカスしていたじゃないか……と思うこともできるのだが、何が違うかというと、すでに普遍の真実への不動の認識、「思い出している土台がある」ということが違う。

この、「今までだって……」の考えが邪魔をして、私はなかなか中間領域・人間部分に今ほど「新領域」として目を向けることができなかった。これが真理会得後の方向性を見失う原因にもなっていたのだが、新しい視点からのそこの探求は、すでに開始されていたのだ。生き直すような感覚を伴うものが。

現在の自分自身の内的状態を公平に見て、私の人生上でいわゆる「真の自己」のエネルギーとの大きなズレはもう生じようがない。多少のブレは含むとしても、決定的なズレが可能だと思えないし、仮にそれが起こったとしてもすぐに気づくだろう。

そのようであっても、新段階に対して開かれた私は「今からこれを!?」と思うような様々な体験に目を見張っている。
人間として体験していく、古いようで新しい色々なこと。

それらを「外」に見ているようで、「内」にある諸々が形になっていく様を見ていて、現在体験している「この人間」がどんな心の開花を展開していくか、この人の望み、心の世界で描いている様々な作品をこの次元でどう体験させることができるのか……。

見ている私は知っている。この「人間部分の私」の体験はそのまま、存在としての私に彩りや豊かさを与えてくれるのだ。


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