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長谷川等伯は何人いるのか? 本法寺・七尾美術館【内井昭蔵】

前回取り上げたのは長谷川等伯の傑作のひとつ松林図屏風。
水墨画の中でも印象が強烈で、余白にさえ湿った空気感を表現した作品。
今回は絵師・長谷川等伯ゆかりの場所を2ヶ所。



長谷川等伯とは

長谷川等伯はせがわ とうはく(1539 - 1610)
能登の国、七尾の人(石川県七尾市)。能登守護の畠山氏に仕えた武士の子。後に染物屋の長谷川宗清の養子となる。養父や養祖父も絵師だったされる。養父母を亡くした頃に妻子を連れ京都へ出る。当時の画壇に君臨していた狩野派に挑み、絵師として歴史に大きな足跡を残す。




京都の等伯

等伯の作品を目にする機会が多い京都。画壇のトップ狩野派にも学び、そしてその狩野派と並び立つ存在へと駆け上がっていった場所。
ほとんど等伯の知識を持たず京都を見て廻った頃、記憶に残ったトコロが2ヶ所あります。
1つは智積院。祥雲寺由来の長谷川派によるいかにも桃山というカンジの障壁画を所蔵。そして期待の後継者だった若き息子に先立たれた等伯の悲しい物語。
もう1つは本法寺。見る人にそのサイズで強烈な印象を与える作品を所蔵。それはあまりにもデカすぎる涅槃像。

今回は本法寺を。


京都・本法寺


仁王門 お向かいさんは裏千家の兜門


京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺前町617

本法寺の位置を地図で眺めていると、応仁の乱の最前線にあることに気付く。東軍大将の細川勝元邸跡や西軍大将の山名宗前邸跡が歩いてすぐ。まあ現地に行っても碑が立っているだけなので実感は乏しい。

本法寺(叡昌山)は室町時代に日親上人によって開かれた日蓮宗の本山の1つ。1436年に東桐院綾小路で造られた「弘通所」が始まりとされる(諸説あり)。しかし日親上人の行動(幕府への諫言等)が将軍の逆鱗に触れてしまいます。当時は恐怖政治で知られた6代将軍の足利義教の時代。日親上人は投獄され拷問を受け、後に別件で寺は破却されたり。紆余曲折を経て豊臣秀吉の時代に現在地へ移転。当時の貫主・日通上人を支援したのは本阿弥ほんあみ光二・光悦こうえつ(1558-1637)親子(本阿弥家は本法寺が菩提寺)。また長谷川等伯も日通上人に深く帰依、上人の肖像画を含む複数の重文作品を寺に残す。


パンフ:2023年 所蔵の花唐草螺鈿経箱(本阿弥光悦作:重文)をデザイン


螺鈿経箱と同じ書跡 光悦筆?


寺務所 手前は光悦垣


十(つなし)の庭と唐門


光悦お手植えの松と長谷川等伯像

本堂前には光悦お手植えの松に並んで等伯さんが立っている。編み笠の旅装で遠く空を見上げている。左手には絵筆。

1人目のトーハクさん 「七尾の方を向いてはる」らしい


涅槃開館と名付けられた宝物館は館内撮影不可。

昭和の雰囲気漂う宝物館

仏涅槃図 1599年
サイズ:縦10メートル、横6メートル
等伯が自ら願主となり寄進。奉納前に宮中で後陽成天皇の叡覧に供された事が「御湯殿日記」に記されている。
絵の裏には釈迦如来をはじめ日蓮聖人、本法寺歴代住職に加え、等伯の後継者ながら先立ってしまった息子の久蔵を含む一族の供養名が記される。等伯自身の姿も描かれている鎮魂の絵。通常はレプリカの展示で、3月14日から4月14日にかけて正筆が展示される。(タイミングが合わず真筆はまだ見た事がない。)
宝物館は2階からも涅槃図を見学できるようになっていて、視点を変えて鑑賞できる。とにかくデカい。そして人物や動物が細かく書き込まれ、カラフルに着色されている。
極限まで削ぎ落とされた松林図屏風とは対極にある描写表現。

仏涅槃図はトーハク発行の長谷川等伯展の図録にも掲載されている。




七尾の等伯(信春)

続いてもう1ヶ所は等伯生誕の地、能登(石川県)の七尾。

七尾市は能登半島中部、七尾湾の南部に位置しています。
古くは能登国の中心(国府)。室町時代の能登守護は幕府の三管領家のひとつ畠山氏(の庶流)。七尾の地に京都の文化を持ち込む。
2023年現在の人口は48,000人と減少傾向。

七尾は自宅から約500kmの距離。まあ遠い。そして雨の多い印象の土地。能登半島には何度か訪れていますが、何度か土砂降りに遭遇したせいでしょう。同じ石川県内の金沢では「弁当忘れても傘忘れるな」と言われています。北陸はそういう気候なのでしょうか。
そんな能登で遭遇する土砂降りが止むと、山間では谷筋から水煙が立ち上るさまが見られます。その光景はなぜか松林図屏風に重なっています。(素人による見解)
現在は氷見から七尾へ北上するルートにトンネル主体の自動車道路が開通していてコチラは至極快適。今年の土砂降りでは雨の影響が最小限に。一方、並行する富山湾沿いの160号線は景色を楽しめます。天気が良ければ海沿いのこちらの方が気持ち良く、氷見方向なら立山連峰が望める事も。

七尾の歴史を少し紐解くと、織田信長(1534-1582)が北陸に勢力圏を拡げる過程で、前田利家(1539-1599)にこの地を与えています。前田家は尾張の人から北陸の人になってしまいます。利家は畠山氏ゆかりの七尾城に一旦入りますが、現在の七尾駅北西に小丸山城を築きます。そして城のさらに北西に防御ラインとしていくつかのお寺を配置。それらのお寺たちは現在「山の寺寺院群」と呼ばれています。この寺院群に等伯の作品がいくつか残されています。

利家とまつ、案内板の題字は前田利祐さん(前田家18代で現当主) : 小丸山城址公園


そして等伯の企画展を年に1回ほど開催しているのが石川県七尾美術館 。




石川県七尾美術館


能登で初めての総合美術館

石川県七尾市小丸山台1-1

美術館は1995年開館、設立の起点となったのは実業家・池田文夫氏からのコレクション(工芸、絵画、彫刻125点、後に総数289点に)寄贈。


石川県七尾美術館パンフ 2011年(上)、2023年(下)
立面図では七尾の地名の由来となった七つの山が


美術館の設計は内井昭蔵うちい しょうぞう (1933- 2002)。内井さんは世田谷区美術館(東京都世田谷区)、サンリツ服部美術館(長野県諏訪市)、大分市美術館(大分県大分市)、射水市新湊美術館(富山県射水市)等を手掛けています。

世田谷美術館(左上)、サンリツ服部美術館(右上)
大分市美術館(右下)、射水市新湊博物館(左下)
各ミュージアムの雰囲気には共通したものが


2011年に訪れた時は、運よく等伯企画展の開催時。東博での長谷川等伯展の翌年。

長谷川等伯展 「信春時代」 等伯のプレリュード
2011年8月 ー 2011年9月 石川県七尾美術館

土砂降りの中ようやく辿り着いたのは覚えていますが、展示に関しての記憶は、ほぼない。


七尾美術館の基礎になった人、池田文夫さん
長崎の平和記念像で知られる北村西望の作品


釈迦・多宝如来像(長谷川等伯筆)の複製

長谷川等伯の作品は常設展示されていません。
富山県高岡市の大法寺が所蔵する等伯作品4幅(全て重文)の複製画が大法寺より美術館に寄贈されています。4幅は入れ替えで展示。この日は上の図が。


入口?
下校中の小学生の通り道になっていた。贅沢
濡れていたので芝はよく滑る。チビッ子たちは水たまりも関係ナイ。




長谷川等伯像

そして七尾駅前の等伯さん。

2人目のトーハク 田中太郎作
ザ・日本人ような名前の方も気になる

本法寺の等伯像とそっくり。まさか京都の方角を見上げているのか?地図を見ても角度的にはそんなカンジ。

台座の説明を読むと等伯会が1990年に「等伯は青雲の志を抱いて上洛した・・中略・・『離郷する信春』を建立した」とある。それで青雲像。また2006年に駅前再開発により現在地に移設されたとある。
像は七尾市出身の彫刻家・田中太郎(1911-1992、平櫛田中に師事)の作品。ちなみに田中さんの作品は七尾美術館にも所蔵されています。

実は本法寺で受付の方に像の由来をお聞きしたがご存じなかった。また七尾美術館でも本法寺と駅前の像との関係をお聞きしたがこちらも分からず。他所のコトだから知らなくても仕方がない。残念。

ところが七尾にはもう1人いた。3人目が。場所は道の駅があるマリンパーク。七尾で入手したパンフにサラッと記されていた。


3人目のトーハク

台座の説明によると2011年に刊行された安部龍太郎さんの小説「等伯」が直木賞を受賞した事で等伯顕彰の機運が高まり、2015年に「青雲」像をモチーフとした新たな「長谷川等伯像」をマリンパークに建立したとある。
つまり駅前トーハクがベースのニュートーハクなのだと。同じではないのか?


3人を並べてみる。左から本法寺、七尾駅前、マリンパーク

写真で見る限り同じように見える3体。現状では七尾の2体は関係アリだけど、京都の像との関係は不明。
まさかの4人目がどこかに存在するかもしれない。辿りつくどころか謎が深まったトーハク像の真実。


おわり

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