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小山田問題におけるネットの功罪

先日から何かと騒ぎになっている小山田圭吾さんのいじめ問題について、今回は思うことを書いていこうと思います。

経緯
発端は、五輪開会式の楽曲担当だった小山田圭吾氏(ex.Cornelius)が開催直前に、過去に音楽雑誌やカルチャー誌で学生時代のいじめについて言及していたことが掘り起こされて社会的な問題になり、結果的に辞任へ。

有名人だけでなくネットでも問題視
問題が大きくなり、多くの有名人がこの件について言及。問題になった雑誌には凄惨な内容を具体的に嬉々として話す様が書かれていたこともあり、芸能人も含めて多くの人が深い嫌悪を抱いたことは間違いない。

今なお続く彼への非難と拡がる過去への揚げ足取り
流石に五輪開催後、彼への非難の記事は数こそ減ったがいまなお続いている。驚いたのは、「過去の粗探し」が五輪開会式の関係者へと拡がっていったことだ。ショーディレクターとして参加していた小林賢太郎氏、そして先日、文春が報道した開会式の台本で明らかになった竹中直人氏の直前での辞退。こうした過去の過ちが取り沙汰され、火事が周りに拡がったのである。ここまで来ると流石の芸能人からも「過去のことで怯え続けなければならないのか」と思ったことだろう。


光明はカズレーザーのひとこと

「再チャレンジというのは過去のマイナスを埋め合わせ、プラスマイナスをゼロにすることを認めるということなので。批判と擁護の声で批判の声が大きというのは、プラスマイナスのマイナスの埋め合わせをしていなかったことなので、これは再チャレンジとかじゃなくて批判されて当たり前の自業自得の話だと思う」 ――――引用、報知新聞社 7/18

―—―「マイナスの埋め合わせをしていなかったこと」
まさしく、この一言だろう。

私の見解
私の見解は、「部外者は、この件についてもう口を出すべきではない。」ということだ。

今回、明らかにネットの功罪がはっきりと出ているように思う。
小山田氏のいじめ問題、実は今まで何度か炎上している。それでも彼は沈黙を守っていた。今回、五輪という公の立場で問題になり、メディアだけでなく、多くのネット民が批判的な意見をSNSで書き込んだことで大きな波紋を呼び、対応せざるを得なくなった。

結果として彼は謝罪文を掲載して、被害者に対する謝罪の気持ちと機会を作りたいと「ようやく」語った。

リンク先の当初は、「続投するのかよ」という非難が相次いだ。
だが、私はこの頃から違和感を感じていた。

「ここから先、彼へ振り上げた拳はどこで降ろされるのだろうか」

その違和感は的中した。彼への非難は辞任した後も続いている。それどころか、メディアは出演者の過ちの粗探しに乗り気になっているように見える。

SNSのかざす「正義」が拳を降ろすとき
今回、小山田圭吾氏に関して言えば、過去の炎上など明らかに「不誠実だった対応」もあった。そこに対して非難の声が上がったことは正しいと思う。
しかし、一方で当事者が向き合うと公言した以上、問題は「当事者同士の領域」に入ってしまったのだ。
そこに他人である僕らが入ることが果たして正義なのだろうか。
正義という名の興味、暴力になっていないだろうか。

彼が実際に謝罪するかどうかは、文春あたりに任せればいいと思う。
謝罪が拒否されたとして、それを背負うのが彼に課せられた罪だろう。
それ以上、僕らがいう言葉は本当にあるのだろうか……。

―—――ネットというリアリティを欠いた世界が人を増長させたのか……

それは僕にもわからない。
ただ少なくとも、大きなうねりが疑似的な社会空間の中で生まれ、そこにメディアが乗っかり過熱して暴走したことだけは間違いない。
これ以上、部外者が立ち入るのは危険だと思う。

僕らがまだ問題の当事者であるなら、それは「SNSという媒体の中で生きる人間のモラルについて考えること」に移っているのではないか。


もし彼が命を絶ってしまったら、それこそ僕らが彼と同じ「断罪されるべき存在」になってしまう。
僕には、そう思えてならない。


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