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まいにち易経_0510【険を逃れる】遯は亨るとは、遯れて亨るなり。[33䷠天山遯:彖伝]

彖曰。遯亨。遯而亨也。

たんいわく、とんとおるとは、のがれてとおるなり。


元経営者の老易者が語る:経営者向けセミナーより

皆さん、今日はお忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます。私は長年、大企業の経営に携わってきた者ですが、今日は易経の智慧をお借りして、皆さんに大切なメッセージをお伝えしたいと思います。

さて、ビジネスの世界で生き残るには、攻めの姿勢が重要だと言われます。しかし、本当の意味での成功を収めるには、「引く」という選択肢も同じくらい重要なのです。今日は、易経の「天山遯(てんざんとん)」という教えを通じて、この「引く」ということの意味を深く掘り下げていきましょう。

「遯(とん)」という字をご存知でしょうか? これは「豚に走る」と書きます。つまり、危険が迫った時に逃げ出す豚の姿を表現しているのです。皆さんも、急ブレーキをかけた車の前を、豚が必死に逃げる様子を想像してみてください。あの必死さ、あの機敏さ。これこそが、「遯」の本質なのです。

ビジネスの世界でも同じことが言えます。危機が迫っている時、我々はどう行動すべきでしょうか? ただやみくもに突き進むのではなく、時には素早く退避する。これが「天山遯」の教えるところなのです。

しかし、ここで重要なのは、単に逃げ出すのではないということです。易経は「退く時は義をもって退く」と教えています。「義」という字は、「刀をもって伐(き)る」と書きます。つまり、退くという決断をする時、それは自分の身を切るような、痛みを伴う決断でなければならないのです。

例えば、皆さんの会社で赤字部門を抱えているとしましょう。その部門に愛着があり、長年力を注いできた。しかし、このまま続ければ会社全体が危うくなる。そんな時、その部門を切り捨てる決断ができるでしょうか? これこそが「義をもって退く」ということなのです。

私自身、かつて大きな決断を迫られたことがあります。創業以来の主力事業でしたが、市場環境の変化により、もはや収益を見込めない状況でした。多くの従業員の雇用にも関わる問題です。しかし、この事業にこだわり続ければ、会社全体が傾く可能性がありました。眠れない夜を何度も過ごしました。しかし最終的に、その事業からの撤退を決断しました。まさに自分の身を切るような痛みを伴う決断でした。

この決断は、短期的には大きな痛手となりました。しかし、この「退く」という選択によって、会社は新たな成長の機会を得ることができたのです。撤退によって得られた資金と人材を、成長が見込める新規事業に投入することができました。結果として、会社は以前にも増して強くなりました。

これが「天山遯」の教えるところです。危機に直面した時、ただ逃げるのではなく、自らを切り捨てる覚悟で退く。そして、新たな機会を待つ。これこそが真の経営者の姿なのです。


ここで、少し視点を変えて考えてみましょう。皆さんは「サバイバル・バイアス(生存者バイアス)」という言葉をご存知でしょうか? これは、生き残った者や成功した例にのみ注目してしまう傾向のことです。ビジネスの世界でも、成功した企業や経営者ばかりに目が行きがちです。しかし、実際には多くの失敗例があり、そこから学ぶべきことも多いのです。

例えば、かつて世界最大のビデオレンタルチェーンだったブロックバスターの例を考えてみましょう。彼らは、ストリーミングサービスの台頭を目の当たりにしながら、既存のビジネスモデルに固執し続けました。結果として、市場から退場を余儀なくされました。(設立1985年~倒産2013年11月6日)
もし彼らが「天山遯」の教えを理解し、適切なタイミングで既存のモデルから「退く」決断ができていれば、結果は違ったかもしれません。

一方で、IBMの例を見てみましょう。彼らは1990年代、メインフレームコンピューターの販売不振に直面しました。しかし、彼らは勇気を持って既存のビジネスモデルから「退き」、ITサービス業への転換を図りました。この決断は当時、多くの批判を浴びました。しかし結果として、IBMは生き残り、今でも業界をリードする企業として存在し続けています。

これらの例が示すように、「退く」ということは、単に逃げ出すことではありません。それは、より大きな成功のために、現状を捨て去る勇気を持つということなのです。

さて、ここで皆さんに問いかけたいと思います。あなたの会社や部署で、今「退く」べきものは何でしょうか? 愛着があるが故に手放せずにいるもの、それは何でしょうか?

易経は「隠遁すべき時は地位や財産を捨ててでも退き、時期の至るのを待つべきである」と教えています。これは、単に物理的な財産や地位だけでなく、我々の内なる執着をも指しているのです。

例えば、ある製品に強い愛着があるかもしれません。自分が開発に携わり、多くの時間と労力を注ぎ込んだ製品かもしれません。しかし、市場のニーズがもはやそこにないとしたら? その製品への執着を「退く」勇気はありますか?

あるいは、長年培ってきた経営手法があるかもしれません。それで成功を収めてきたかもしれません。しかし、時代が変わり、その手法がもはや通用しないとしたら? その古い手法から「退く」覚悟はできていますか?

「天山遯」の教えは、このような内なる執着からの脱却も求めているのです。それは時に、自分の価値観や信念を根本から覆すような、痛みを伴う決断かもしれません。しかし、そのような決断こそが、真の経営者に求められるものなのです。

ここで、日本の伝統的な文化からも学んでみましょう。「諸行無常」という言葉をご存知でしょうか? これは仏教の教えの一つで、全ての物事は常に変化し、永遠に存在し続けるものはないという意味です。ビジネスの世界も同じです。今日の成功が明日も続くという保証はありません。だからこそ、我々は常に変化を恐れず、時には「退く」勇気を持たなければならないのです。

また、日本の武道にも「引き際の美学」というものがあります。例えば、剣道では「引き際の一本」という技があります。これは、相手の攻撃を避けながら後退し、相手の隙を突いて勝利を収める技です。ここでの「退く」は決して臆病な行為ではなく、勝利のための戦略的な選択なのです。

ビジネスの世界でも同じことが言えます。時に「退く」ことは、より大きな勝利のための戦略的な選択となり得るのです。

さて、ここまで「退く」ことの重要性について話してきましたが、最後に一つ付け加えておきたいことがあります。それは、「退く」ことと「諦める」ことは違うということです。

「天山遯」の教えは、ただ逃げ出すことを勧めているのではありません。それは、より大きな成功のために一時的に身を引き、次の機会を待つことを教えているのです。つまり、「退く」ことは、新たな始まりのための準備期間なのです。

例えば、トヨタ自動車の例を考えてみましょう。彼らは長年、ガソリン車で世界をリードしてきました。しかし、電気自動車(EV)の台頭により、一時は出遅れたように見えました。多くの人が、トヨタはEV時代に取り残されると考えました。

しかし実際には、トヨタは静かに、しかし着実にEV技術の研究開発を進めていました。彼らは一時的に「退いた」のです。そして今、彼らは革新的な全固体電池技術を発表し、再び業界をリードする立場に立とうとしています。これこそが「天山遯」の教えを体現した例と言えるでしょう。

皆さん、経営者としての道のりは決して平坦ではありません。時には困難に直面し、時には痛みを伴う決断を迫られることでしょう。しかし、そんな時こそ「天山遯」の教えを思い出してください。

危機が迫った時、素早く退避する勇気を持つこと。
既存の枠組みや自分の執着から「退く」決断ができること。
そして、それは決して諦めではなく、新たな成功への準備であること。

これらを心に留めておけば、皆さんはどんな困難も乗り越えられるはずです。

最後に、こんな言葉を贈らせていただきます。「退くは次の一歩のため」。時に一歩下がることで、より大きく飛躍できる。これこそが「天山遯」の真の教えであり、成功する経営者の秘訣なのです。

今日の話が、皆さんの今後の経営判断の一助となれば幸いです。ご清聴ありがとうございました。

参考出典


「遯」は豚に走ると書き、退避、隠遁の意。非常なる危険が迫っている時は素早く退避すべきであり、また、隠遁すべき時は地位や財産を捨ててでも退き、時期の至るのを待つべきである。
君子の進退として、「退く時は義をもって退く」という言葉がある。「義」は刀をもってる、裁くこと。つまり、逃れる時は、自分の身を伐るような決断を要す。天山遯の卦は、逃れるべき時は自分の意志や欲を捨てて逃れよ、と教えている。

易経一日一言/竹村亞希子
遯之時義大矣哉

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