【素読、散読】


お勤め仕事である老人ホームでの勤務以外の時間をプライベートタイムとして、そこから睡眠時間の6〜7.5時間を引いた時間に私は何をするか。。大きく分けると

実践と前進の2つに分けられます。

実践はルーティンのようなものと書くとイメージしやすいかもしれませんが、ルーティンと表現するのはやめました。

ルーティン。を、意思決定を省くことでの労力の温存を可能にした行動様式としたとき、これは確かに便利な感じがするのですが1つ問題がありそれは、

「側頭葉だけが働き、必然的に前頭葉(意思決定をなす分野)の働きが弱まる、いわば前頭葉における廃用性症候群のリスクがある」

ということです。なので、戒めとしてルーティン改め実践としています。

ボディケア、掃除、断捨離、その他家事全般、写経読経、素読、アシュタンガヨガプライマリーシリーズ

これらを日々の決め事として自動的にするのではなく、瞬間瞬間に前頭葉による意思決定というプロセスを必ず経由して、実践します。

これは本当に疲れ、時間的効率は当然、低下するのですが、意欲と創造性はメキメキメキと培われていくことを感じます。

この際に鍛えられた前頭葉が前提となって、その元となる直観を司る頭頂葉もまた健全化するのかな?と直観します。

 「時は金なり」

私はこれを「いつの間にか世界にかけられた1つの善悪両面のあるオマジナイ」と捉え、そして現在では呪いとして強く顕在化しているものと感じます。

「3日かけてやることを1日でやらないとダメ」

「3人でやっていたことをテクノロジーとやらを駆使して一人でやらないと無能」

そうしてドンドン心身が摩耗し、知性は減退してしまう。

お金という、あくまで数多ある基準の1つとして存在するモノを絶対の基準として錯覚し、全ての価値を「換金」して測るならば、生産性という言葉は「いかにお金を効率よく生み出すか?」に当然帰せられる。

それは別に悪いことではないでしょう。しかし、私向きではない。

私は、基本的に人が3日かけてやることを2週間かけて、「普通の人」が生み出す事の出来ない価値を付加して、成す。というタイプの人間だと自認しています。

私は自分が希少価値のあるレアキャラだと言いたいのではなく、多分私の他にもたくさんそういう人がいるだろうと言うことが言いたいのです。

更に言うなら、人が3日かけてやることを5 年かけてやる過程で、全く別次元の価値体系を生み出すようなタイプの人だってゴマンといると思うのです。

そう、色んな人がいる

しかしまあ、私のような人間はノロマと呼ばれ、場所によっては軽蔑される。5年かけるタイプだと、上手く立ち回れば、乃至運が良ければ歴史的天才と称されるかもしれませんが、ともすれば「障害者」とされてしまう。

どうも、今の世の中、本来多種多様の人間という群体をやたらと、画一規格にサクサク切り取りたがる性質を感じて仕方がない。

多様性だのなんだのというが、例えばホモやレズビアンというあり方の人々に対して、「気持ち悪い」と感じる人がいたとしても当然なわけだが、まあ、どうなるでしょうね今の世の中だと。

怒られそうですね?

「そんなのだめだ!」

と。発言しようものなら。。ちょっとやばいことになる。これ、おかしいと思いませぬか?

そりゃ、その発言に攻撃的意図があるのであれば、そりゃまあ、あまりよろしくないとは私も感じる。

が、それらの発言には攻撃的意図ではなく、個人的感覚の発露であることもあるでしょう。そしてそれは、どっちであるかは、なんとなく、つまり直観で分かる。

その微妙な匙加減をなすことなく、発言そのものを悪と封殺するのはあまりにもお粗末、雑だと感じる。今や、発言しなくとも思っただけで✖とされかれない風潮を感じる。

これ、多様性の尊重という意味合いにおいては私は後退しているとしか思えないのです。

(すごーく微妙なことを申し上げています。当然、膨大なる数の文字を積み重ねないといけない。でないとこの手の微妙な事は言えない、書けない、伝えられない。「分かりやすい短文で」という縛りがあるのであればこのような繊細な思考は実質的にそもそも表現してはいけないことになるのです。故に「短く分かりやすい」という短文によってなされる精製物が人の思考と志向と嗜好を操りお金を生み出す」というのが絶対善のように扱われる行き過ぎたコピー社会においては人の思考は浅くなり、衰え、結果として暴力的になる)

で、その世の中の風潮とやらの源泉となるのが、個々人における前述したルーティン、つまり側頭葉のみの反射的、衝動的行為にばかり慣れすぎ、前頭葉による意欲、頭頂葉による直観の退化。ではないかな?と感じるのです。

さて、前進について。。。

計画を立てるのは大切ですが、計画の奴隷になってはならないとは古来から言われることですが、その奴隷化に陥いる罠の1つが、ルーティン化の過多なのかなと感じます。

ビジョンは明確に持ちつつも、意思決定は常に行い、その工程は常に固定化を戒め、必要ならばビジョンの調整さえも辞さない。

書いて見ると当たり前に必要なことが、案外、出来ない。

幸せになるためのツールであるビジョンが絶対神のように君臨してしまう。これもまた微妙な問題です。

やはり「今、この瞬間と、目の前にいる誰かを大切にしない」という困ったあり方につながる。

やはり、効率というやつを手放さねばならんかな?と。。

いや、効率はやはりツールとしては大切です。そう、手放すのは知らず知らずのうちに神として君臨させてしまっている効率。の方ですな。

効率というものに神の台座から降りて頂ければそれで良し。

あと、何事においても、「これさえしていれば良い」は、ないかな。

何事も、どこかで疑う。前向きに疑う。寛容に疑う。

そう、前進というやつはある意味で、フワフワ、フラフラとしていないといけない。たくさんのモノを見て、聞いて、感じて、味わう。

そして方向を見定めるもそれに対して右往左往する。その中でエネルギーを凝縮して見定めた方向に向かうのではなく、上方向に「向上」する。

この前進に必要な右往左往に耐えられるための強靭な心身を作るために、日々の、あくまで都度の意思決定を経由した実践があるのかな?

と、おぼろげに感じています。

写真は今、同時進行に読んでいる本のホンの一部です。

この内、『春宵十話』と『人間の建設』はくり返し素読しています。2冊とも今年に入ってから5週目です。意味を解釈しようとするのを極力避け、あるがままの姿に親しむ。これを試しています。不思議なもので、意味が全く分からなかった事たちが、掴めて来るのです。小学校2年の時にやった九九の暗記と同じような感じです。基礎としての血肉を構築する。読書の中でのこの2冊の素読は実践です。この2冊の素読が進んだら岡潔と小林秀雄の本は素読対象にしようと思っています。

そう、意味を考えて読む、つまり自分の解釈をするということですが、これって思えば過去の自分の経験がその解釈の土台になっているので、つまるところ、自分の過去の確認となり、

「自分を拡げる」

にはならないのかもしれないのです。これは自分としてはこの一年の読書経験における最大の発見です。

そう、下手すると本を読めば読むほど、自分という人間を狭く凝り固めてしまう。よくよく考えたら昔から「読書の虫、案外視野狭し」といった主旨の事が語られていますね。

そう、本を読めば読むほど、自分では視野を広げているつもりが、ドンドン小松龍司が小松龍司っぽくなっているだけ。になってしまっている。

そんなことがこの40余年の人生で起こっていたとするならば、これはなかなかに悲劇であり喜劇ですな😆

そして実際、2冊の素読を試したところ、世界が。。

広がるぅぅぅーーー!!!!!

少なくとも岡潔と小林秀雄という二人の巨人の視野、あり方が、極微量ではあるが小松龍司の心身に混流している。その極微量が世界の見え方を激変させる。

これもよくよく考えたら当たり前かもしれませんね。

もし、小学2年の時に、九九というメモ帳1ページに充分収まる量の事を、意味も考えずにインストールするという、極微量の事をしなければ、今、自分が見ている世界はどうなったか?

考えてみると面白くも恐ろしい。

そう、逆に言うとこの素読というものはあまりにも作用が強いので、ルーティンにするのは「危険」、しっかりと自分の前頭葉による意志で厳選したモノを厳選したタイミングで摂取せねば、後悔すると直観しますね。

2冊以外の数多の本は、意欲の赴くまま散読。フラフラフワフワと読みながらも、素読の材料も探しつつ。。

そんな感じで最近、本ばっかり読みながら、たまにこうやって文を散らかしています。散文ですな。

そんな実践と前進をしています。

その方向性は、希望を元にして定めています。。と、言い切りたいところですが、やはり、「怒り」というのもキッカケとしては小さくないというのは正直に白状するものですね。


怒りが。。。

あるのです。

ま、それ故に希望を描きたくなるのかもしれないので、必ずしも悪いことではないとも最近は感じます。

怒りは上手く制御して、怒りに我を忘れて人に不快な思いをさせない。これ、案外難しい。

「最低でも誰からも嫌われない」

「自分の好きなようにやる」

これは中々に両立は難しい。


山本七平という人は著書『小林秀雄の流儀』の中で、「いつも、自分のしたいことだけをして、しかも破綻なく、決して後悔せず、見事なまでに贅沢な生き方を貫いた人」と小林秀雄という人物を定義付けています。生活の達人。超一流の生活者。と。

憧れますなぁ!

ああ、人生現在42年。

楽しきこと、目指す事、憧れること、未だ尽きるどころか増えてゆく。

嗚呼、贅沢だなあ

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