リョウケンの聖書くねくね

「でくの坊」です。愛と希望と平和につながることを書きたいと願います。が、その過程で個人…

リョウケンの聖書くねくね

「でくの坊」です。愛と希望と平和につながることを書きたいと願います。が、その過程で個人の心の暗部も世界の不穏も見つめなくてはならないでしょう。詩と川柳とエッセイなどを通じて、生きることの意味の深さや真実の健やかさを探りたいと思います。イエス・キリストへの祈りを土台として。

最近の記事

〈信仰くねくね〉「聖書を読もうかな」という時5

川柳『聖書』ってなあに? ① 「『バイブル』の一冊です」と聖書云い もしかこれ禁断の書かも ドッキドキ 自我強し おのれを恃(たの)む「自分教」 血迷った? きみが聖書を買うなんて タマシイを盗み見されているような 何となくうしろめたくて 手に聖書 聖書読む 他人のような顔をして ●読んでくださり、感謝します!

    • 〈信仰くねくね〉「聖書を読もうかな」という時4

       初めて聖書を買ったときから九年ほど経って、私は聖書を読む気になった。大きな事故にあい、あと数センチのところで命拾いをした。けれど、全身の打撲、特に首と腰の打撲がひどく、痛みが暮らしという状態になっていた。治療の効果はあんまりなく、体も心も頼るものを失った。残った魂がついに「助けて!」という声をあげたのだった。  私は文語訳の分厚い聖書を買った。旧約聖書と新約聖書が一冊に収まっていた。現代語で書かれた聖書でなく、短いセンテンスでキビキビ書かれた文語訳が、背筋を伸ばしてくれるよ

      • 〈信仰くねくね〉「聖書を読もうかな」という時3

         「聖書を読もうかな」と人が思うのはどのような時だろう。いや、私自身がそう思ったのはどのような時だったか。  体と心と魂と、この三つがあるなら、聖書は「魂」に働きかける。体と心が、病んだり傷ついたり苦しんだりしても、すぐに「救い」を求める気持ちにはなれぬかもしれない。むしろ心と体のことで精一杯になってしまい、魂の入る隙間がない、という状態かもしれない。「目の前の困難を自力で乗り切らねば」、「弱気にならず頑張らないと」と。―「今ちょっと手が離せない。神さま、ご免!」と、私自身

        • 〈信仰くねくね〉「聖書を読もうかな」という時2

          初めての聖書  初めて買った聖書、それは、高校への通学路にある古本屋の棚にあった。  その後、翻訳された聖書には多くの種類があることを知ったが、当時のわたしには、それが唯一の聖書だった。それは小型で厚かった。紙が薄いので重たくはなかったが、手にズシリと響いたような気がする。霊的な重みを感じたのかもしれない。  わたしは、それを何かしらの「決意」で買った。いつものような文庫本を買う気持ちでなく、もう少し改まった、いわば正座をするような気持ちで買ったのだと思う。  しかし、その

        〈信仰くねくね〉「聖書を読もうかな」という時5

        マガジン

        • これも神さまの証しかな?
          3本
        • 「救い」って何だろう?
          0本
        • 〈自分教〉Ⅰ
          4本
        • <自分教>Ⅱ
          2本
        • 母の記
          8本

        記事

          〈祈りのエッセイ〉寂しさを知らないさびしい人間になるな―中学の先生の言葉

           そのとき僕は、中学校の図書室の片隅で、担任の先生から諭(さと)されていた。中二だったか、中三だったか。 ―思春期には、心の弾むような自己表現がある。大きな揺れもふくめて喜怒哀楽の豊かな時期だ。  けれど君には「感情」の動きが感じられない。喜びにも寂しさにも素朴な反応が表れない。どうして自分の殻を固く閉じているのか。  五歳から「崩壊家庭」で育った僕は、いつのまにか、感情を殺し、無表情を装うことこそが自分を守る術(すべ)だと思いこんでしまっていたようなのだ。小学校を五

          〈祈りのエッセイ〉寂しさを知らないさびしい人間になるな―中学の先生の言葉

          〈信仰くねくね〉「聖書を読もうかな」という時1

           家の宗旨が仏教の○○宗である、という人のほかにも、仏典を読む人、仏 教に触れる人は少なくないだろう。「歎異抄」は広く読まれていると思う。 「般若心経」をなぞって心を静める人はもっと多いだろう。  それに比べて『聖書』を買う人、読む人はどれほどいるのだろうか。何か の深い重い事情があって思いつめたというようなことがないと、手にするこ とは少ないように思う。(もちろん知的な興味で読んでみようとする人もい ると思うが)  わたしが初めて聖書を買ったのは十七歳のときだ

          〈信仰くねくね〉「聖書を読もうかな」という時1

          〈自分教〉わたしの宗旨は「自分教」4

          自分教とラッキョウと鉄橋と 1 らっきょう じぶんきょう― らっきょう― 両方とも外見は一人前のようだが かんじんかなめの芯が無い それでも らっきょうには素直さがある 甘酢や塩水に漬けられることをいやがらない 自我の一枚いち枚に愛の旨味をしみこませ あたらしい自分に生まれ変わることを拒まない そこへいくとどうだ 自分教の奴は!  だれにも己を譲らない 新たな自分に再生することなどもってのほか まして神などに洗脳されてたまるものか そういう身構えだ わたしが主(

          〈自分教〉わたしの宗旨は「自分教」4

          〈自分教〉わたしの宗旨は「自分教」3 

          化けの皮 よその犬に噛まれたとき わたしは死の恐怖におそわれた でも 傷を負いながら母にさえ助けてといわなかった 一日三百円で過ごしていたとき わたしに明るい未来はあるのかと嘆いた でも 三度三度食べたモヤシや豆腐にも愚痴はこぼさなかった 会議で上司にののしられたとき 会社をやめようかと落ち込んだ でも 同僚たちが心配してくれる顔へ笑ってごまかした 腰が折れる事故に遭ったとき ああこれで死ぬのかと観念した でも 神さま! と心のなかで声をあげはしなかった 苦しいのに「く

          〈自分教〉わたしの宗旨は「自分教」3 

          〈自分教〉わたしの宗旨は「自分教」2

          過信 生きることの全部 それを支配しているのはわたし ひとが幸福と憧(あこが)れるものはもちろん  不幸と忌(い)み嫌うものさえも  どれもこれもがわたしの領分だ 神さま?  仏さま? それって何?  「自分」という芯の無い、弱虫いくじなしの慰めもの でしょ! 能天気の楽天家―わたしをそう嗤(わら)うひともいる 無邪気な苦労知らず―そうけなすひともいる 人間ぎらいの頑固者―そう後ろ指をさすひともいる 畏(おそ)れるべきものを知らぬうぬぼれ屋―それがいちばんの悪口陰口

          〈自分教〉わたしの宗旨は「自分教」2

          〈自分教〉わたしの宗旨は「自分教」1  

          自信 わたしは信じているのだ 自分という者を わたしが頼りにするもの それはこの私自身だ わたしは生来の無宗教 だが宗旨はある それは「自分教」 わたしは自分というものをしっかり持っている  頭も目も耳も口も手も足もおおいに頼れる  自分で立ち、自分で歩く  つかむのも放すのも自分 自分で見、自分で聞き  自分で話す 自分で行う 自分で感じ、自分で思い、自分で考え、自分で決めながら これまで何も信じずに生きてきた  だれにも心を許さずに来た 決して ―他人はアテにな

          〈自分教〉わたしの宗旨は「自分教」1  

          〈祈りのエッセイ〉母に贈った姉のアルバム

             四十数年前、母が再婚したとき、姉は母に棄てられたと思ったようだった。姉も私も成人していたが、再婚は嫌だったのだろう。幼いころ、二人は母の取り合いで始終けんかをしていた。  その母が病で亡くなった。  亡くなる前、姉は母の看病に通い続けた。口で言うこととしている事との違いを、姉はついに説明しなかった。  母が亡くなったのに続いて、義父も他界した。ともに離婚を経ての再婚だった。地方に移り住み、夫婦で寄り添いながら、新たな家庭を築いてきたのだ。つましい暮らしだが、私には幸福

          〈祈りのエッセイ〉母に贈った姉のアルバム

          〈母の記〉バックミラー

          ─ようやく子どもが片づきまして  安堵(あんど)か満足か そのひとの目は優しい ─でも いくつになっても心配で  そのひとの顔は心なしかやつれている ため息もまじる よく響く笑い声をまんなかにして 泣いたり おこったり オロオロしたり 子育ては 人生の一大事  と 体全部が教えてくれた ―じゃあ、ね 乗りこんだ軽トラックのバックミラーに 自立する息子を見送る母がちいさく映っている ●読んでくださり、感謝します!        

          〈母の記〉バックミラー

          〈母の記〉すとれすのうた―母の西瓜

          1 すぐに引き取ってください―その医師は院内電話で冷やかに告げたのだった とほうに暮れた霊安室のわたし 解剖の終わった母を前に れいきゅうしゃをどうやって呼び、どうやって運んだのだったか すべてが終わったのに いま始まったばかりのような死者との長い時間 2 すぐに帰ってくるから そう連絡があった心臓の検査入院 とおい病院なので、多忙なので、家族がいるので 気に留めずにいた息子 れんらくは深夜 枕もとでとつぜん鳴り響いたのだった すっかりやつれはてて重篤(じゅう

          〈母の記〉すとれすのうた―母の西瓜

          〈母の記〉母の最期③

          1  通夜が果てました おかあさん 世界のこの静けさのなかに あなたの棺を置いていきます 長くはなかったかもしれない 幸福ともいえなかったかもしれない あなたの一生 家族との時間 今 天に向けてからだを伸ばしているおかあさん くるしみから 哀しみから 不安から 心配から もう解き放たれたひととなって 深く どこまでも深くねむるために おかあさん この夜のしんとした広さのなかに置いていきます いつまでもなつかしい顔のまま あなたのさいごの居場所 この小さなちいさなあ

          〈母の記〉母の最期③

          〈しあわせの歌〉病んだおかげで

          「しんどいときでも、いえ辛い時にこそ笑いましょう」と言い遺したひと 「あとになれば、今の苦しさも思い出として懐かしめるかもしれない。   わたしはもう何十年も病院暮らしです。敗北者に映るでしょう、たぶん。 せけんの目は優しくありません。でもね、神さまと出会えたのは実にこの病 のおかげなんです」―と はにかみの笑顔を遺したひと 信仰の先輩  信仰の先輩が先日亡くなった。「社会的入院」と呼ばれる長い入院の中、 日曜日は、外出許可を得て教会の礼拝に出席なさった。指定席であ

          〈しあわせの歌〉病んだおかげで

          〈祈りのエッセイ〉「ほどかれていい」自分

           転居をくり返してきたので「ほどく」事が苦手である。いつまた引っ越すかもしれぬので荷解きをしないのだ。だから、どこも「仮住まい」である。  人間関係も同様で、始終転校・転職をしてきたので、初めから深い関係づくりをしなかった。「いま・ここ」に身を置いて生き抜く、という根の下ろし方・張り方ができなくなってしまったのだ、いつのまにか。  だが、本当はほどきたいのだ、荷物でなく己自身を。そして「いま・ここ」で思い切り生活したいのだ、いきいきと。  すき間からそっとのぞくようなオドオド

          〈祈りのエッセイ〉「ほどかれていい」自分