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〈祈りのエッセイ〉寂しさを知らないさびしい人間になるな―中学の先生の言葉


 そのとき僕は、中学校の図書室の片隅で、担任の先生から諭(さと)されていた。中二だったか、中三だったか。
 
思春期には、心の弾むような自己表現がある。大きな揺れもふくめて喜怒哀楽の豊かな時期だ。
 けれど君には「感情」の動きが感じられない。喜びにも寂しさにも素朴な反応が表れない。どうして自分の殻を固く閉じているのか。

 
 五歳から「崩壊家庭」で育った僕は、いつのまにか、感情を殺し、無表情を装うことこそが自分を守る術(すべ)だと思いこんでしまっていたようなのだ。小学校を五度転校した(たいがい長期休みのうちに去ったので、別れを告げる機会もなかった)ことも影響していると思う。一年もすればまた別の学校へ移るのだから、心を開いて仲良しを作っても仕方ない、というような気持ちだった。実際に友達は少なかった。
 ひとの心の傷、いや自分の心の傷にさえ無関心のふりをすることで、独りで生きる強さを身につけようとしていたのだろう。
  「人は信用できない。人は裏切る。近づきすぎるな。本心を語るな。弱さを見せるな」というのが、自分への戒めだった。「ひとりだって、さびしくなんかないさ」
 小学生の自戒としてはずいぶん気張っていたなあと、今なら思う。とにかく決めつけがすごい。家庭が崩れたようになっても、何度転校しても、環境に負けず、自分を卑下しない、人を怪しいと思わない、というひとはたくさんいるだろうに、と。
 中二中三の僕は、表面的には活発だったと思う。勉強も運動も意欲の高い生徒に映っていただろう。でも、心に「愛の核」というものが無かった。
 その僕の心の虚(うつ)ろを見抜いたかのように、その言葉は発せられたのだった。
 
 ―人間て、みんな寂しさを感じて生きているんだよ。それを素直
に認めて、助け合って生きているんだよ。
  君は本とうは寂しいはずだ。それを素直に認めたらいい。そして、ひとに声をかけたらいい。独りぼっちで、突っ張らなくっていいんだから。
  寂しさを知らないさびしい人間になってはだめだよ。

 十五年後、クリスチャンとなって、ひとから、
「君はよく笑う。明るい性格なんだね」
といわれるようになった。驚いたことに、と、自分で思った。
 それまで、その先生の言葉は僕の心の奥深くに刺さり、愛に満ちた警告を発しつづけてきた。いや、今でも生きた言葉として胸の真ん中にある。
 「寂しさを知らないさびしい人間になってはだめだよ」、その一言。
 僕はまだ、感情を素直に表せないときがある。表情もこわばることが少なくない。目が笑っていないというのは、ずっと言われ続けてきた。
 弱さをすべてさらけだすのが難しく、カッコつけてしまうときがある。人間には必ず良いところがあるのだから、それを信じよう、という思いより、どこまでこの人は信頼できるのだろうと構えてしまうクセも消えていない。
 けれど、無理しなくていいんだから、肩の力を抜けばいいんだから、怖がらなくてもいいんだから、という声が聞こえてくる。
 弱さは恥じゃないよ、ボロを出して生きていくほうが楽だよ、ひとに「助けて!」と言っていいんだよと、そういう声が聞こえてくる。


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