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〈信仰くねくね〉「聖書を読もうかな」という時2

初めての聖書

 初めて買った聖書、それは、高校への通学路にある古本屋の棚にあった。
 その後、翻訳された聖書には多くの種類があることを知ったが、当時のわたしには、それが唯一の聖書だった。それは小型で厚かった。紙が薄いので重たくはなかったが、手にズシリと響いたような気がする。霊的な重みを感じたのかもしれない。
 わたしは、それを何かしらの「決意」で買った。いつものような文庫本を買う気持ちでなく、もう少し改まった、いわば正座をするような気持ちで買ったのだと思う。
 しかし、その聖書を熱心に読んだかというと、そうではなかった。聖書には創世記や詩篇などの「旧約聖書」というかたまりと、マタイの福音書や黙示録などの「新約聖書」というかたまりとがあるのだなと、そのくらいの知識を得た程度だった。「約」は「契約」の意味で、神の古い契約(イエス・キリストをこの世に送ってくださるという契約)と、神の新しい契約(イエス・キリストがこの世を救ってくださるという契約)があることを知ったのは、もっと後になる。
 ときおり開いて読むことはあったが、読みひたることはなかった。
 何かしらの「決意」で買ったはずなのに、今思えば、いっときの興奮だったのだろう。人生の深みにはまってどうにもならなくなり、救いを宗教に求める、という魂の状態ではなかった。思春期の気取りが、「聖書を持つってなんかカッコイイ」と思わせたのだろう。
 大学生になったとき、聖書研究会というサークルに入っている学生が、文語訳の聖書を見せてくれた。そのときも「文語訳って、なんかカッコイイ」と思ったことを覚えている。
 わたしの場合、どうやら魂の問題でなく、したがって信仰的でなく、見せかけだけの、一種のファッションとして聖書を持つことになったのだ。キリスト教の信徒でない人が、胸から十字架のネックレスを下げているのと同様に。
 当時も今も、底の浅い己であると認めないわけにいかない。
 ただ、なぜかしら、最初に買ったその小型の聖書、それがその後ずっと心の中に不思議な光を放っていたのである。


●読んでくださり、感謝します!