「自分がやがて死ぬこと」とどう向き合えばいいのか? 人気の禅僧が出した「一つの答え」
今日は現代ビジネスの1/4配信記事からご紹介します。
禅僧の藤田一照さんは、死のレッスンを開講されています。
できそうですか?
反証=ある物事の影響が他におよぶこと。
死の存在を認めることで、生をどのように見つめるかという修行のようです。必ず死があると分かっていても、経験してから生き続けることはできません。
死とは、「空を飛ぶ体験をして楽しかった。明日からまた仕事頑張ろう。」というような、体験の一つではありません。死はすべての終わりを意味しますから、明日はありません。
死という影があるからこそ、生に陰影と奥ゆきが生まれる。
私たちは分かっているようで、意外と分かっていないものです。なんとなく、明日も存在しているのが当たり前のように考えています。いや、考えもしていないかもしれません。当たり前でも、意外でもなく、明日の存在が確実かどうかすら、実は考えていないのが現実ではないでしょうか。
名言だと思います。哲学ですよね。私は好きです。日常的にこんな事を考えて過ごしている人は、ほんの一握りでしょう。
「平和ボケ」という言葉は聞いたことありますが、「生存ボケ」は初めて聞きました。いい言葉ですね。これから私も使おうと思います。
実はどうでも良い話
死を思いながら生を考えるのは、なかなか難しいように感じます。想像しなければならないわけでもなく、答えを導き出さなければならないわけでもありません。だとしたら、どうでも良い話になってきます。
そう、こんなこと、どうでも良い話なんです。わからない人、想像できない人は、気にしないでください。考えたって、考えなくたって、人はそのうち死にます。
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