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「自分がやがて死ぬこと」とどう向き合えばいいのか? 人気の禅僧が出した「一つの答え」

今日は現代ビジネスの1/4配信記事からご紹介します。

禅僧の藤田一照さんは、死のレッスンを開講されています。

チベット仏教には「死の瞑想」というのがあります。「死は必ず訪れる」「だけど、いつ来るかわからない」ということを深く観相する瞑想です。最初は言葉に出して繰り返し唱えるのですが、だんだん言葉を超えて、そのリアリティが「体感」されるようになる。死の感覚が体にしみこんできたら、言葉をやめて、その体感と一緒にいる。

これは、死に「反照」された生を見つめるための修行です。

できそうですか?

反証=ある物事の影響が他におよぶこと。

死の存在を認めることで、生をどのように見つめるかという修行のようです。必ず死があると分かっていても、経験してから生き続けることはできません。

死とは、「空を飛ぶ体験をして楽しかった。明日からまた仕事頑張ろう。」というような、体験の一つではありません。死はすべての終わりを意味しますから、明日はありません。

死という影があるからこそ、生に陰影と奥ゆきが生まれる。


私たちは分かっているようで、意外と分かっていないものです。なんとなく、明日も存在しているのが当たり前のように考えています。いや、考えもしていないかもしれません。当たり前でも、意外でもなく、明日の存在が確実かどうかすら、実は考えていないのが現実ではないでしょうか。

僕らの生は、死に裏打ちされているからです。物体は影があるから立体に見える。同じように、死という影があるからこそ、生に陰影と奥ゆきが生まれる。「いまここで死ぬかもしれない」という感覚こそが、現在の貴重さを教えてくれ、生を輝かせてくれる。

名言だと思います。哲学ですよね。私は好きです。日常的にこんな事を考えて過ごしている人は、ほんの一握りでしょう。

僕は、死の厳粛さを忘れてしまい、いつまでも生がつづくような感覚でいることを「生存ボケ」と呼びますが、こうした瞑想や日々の死との向き合い方によって、僕たちは死に照り返された生を見つめ、生の輝きを回復することができる。「死を思え」ということは、じつは「生を思え」ということなんです。

「平和ボケ」という言葉は聞いたことありますが、「生存ボケ」は初めて聞きました。いい言葉ですね。これから私も使おうと思います。

実はどうでも良い話


死を思いながら生を考えるのは、なかなか難しいように感じます。想像しなければならないわけでもなく、答えを導き出さなければならないわけでもありません。だとしたら、どうでも良い話になってきます。

そう、こんなこと、どうでも良い話なんです。わからない人、想像できない人は、気にしないでください。考えたって、考えなくたって、人はそのうち死にます。


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