古典100選(46)徒然草

この古典100選シリーズでは、初めての掲載となる『徒然草』である。

過去に「現代版・徒然草」シリーズがあるが、そのシリーズでは取り上げていない「第108段」の文章を紹介しよう。

徒然草は、鎌倉時代の終わりに成立したと言われているので、この作品は1330年頃までに書かれたものと思われる。

では、原文を読んでみよう。

①寸陰惜しむ人なし。
②これ、よく知れるか、愚かなるか。
③愚かにして怠たる人のために言はば、一銭軽しと言へども、これを重ぬれば、貧しき人を富める人となす。
④されば、商人(あきびと)の、一銭を惜しむ心、切なり。
⑤刹那覚えずといへども、これを運びて止まざれば、命を終ふる期(ご)、忽ちに至る。
⑥されば、道人(どうにん)は、遠く日月を惜しむべからず。
⑦たゞ今の一念、空しく過ぐる事を惜しむべし。
⑧もし、人来たりて、我が命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、今日の暮るゝ間、何事をか頼み、何事をか営なまん。
⑨我等が生ける今日の日、何ぞ、その時節に異ならん。
⑩一日のうちに、飲食・便利・睡眠・言語・行歩(ぎょうぶ)、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。
⑪その余りの暇幾ばくならぬうちに、無益の事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟して時を移すのみならず、日を消し、月を亘りて、一生を送る、尤も愚かなり。 
⑫謝霊運(しゃれいうん)は、法華の筆受(ひつじゅ)なりしかども、心、常に風雲の思を観ぜしかば恵遠(えおん)、百蓮の交じりを許さざりき。
⑬暫くもこれなき時は、死人に同じ。
⑭光陰何のためにか惜しむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、止まん人は止み、修せん人は修せよとなり。

以上である。

この470年後に松平定信が書いた『花月草紙』と比べて、同じ随筆でもどちらが読みやすいだろうか。

共通しているのは、2人とも中国の古典をよく読んでいることが分かるし、文章の特徴をみると、⑧や⑨のように漢文の影響を受けた箇所もある。

この文章で兼好法師が言いたいことは、わずかな時間も惜しんで日々生きなさいということである。

本文中にあるように、飲食・便利(=排泄のこと。今で言う便利とは違う意味。)・睡眠・言語(=人との会話)・行歩(=お出かけ)には、必ず時間を取られるわけだから、残された時間は無駄に過ごすな、人生が長いと思っていたら命が明日にも尽きると言われたときに後悔するだろうと言っている。

⑫の文では、中国の詩人だった謝霊運のことを挙げているが、彼は仏教についての理解はあってもその奥義を体現するほどまで修業をしていたかというとそうではなかった。

だから、恵遠という人に、百蓮社への加入を認められなかったのである。

現代の私たちは、毎日忙しいと言っているが、人によっては「スマホゲームの時間が足りない」とか言って、本来なすべきこと(=食事とか家事とか生活上のルーティン)を疎かにしている。

兼好法師からすれば、それは愚かなことなのである。

1日の中できちんとやるべきことを、日々怠ることなく積み重ねていき、失敗から学んだり、改善を図るために新しい試みにチャレンジしたりして、余暇を有意義に過ごすことができれば、きっと悔いのない人生を送れるはずなのである。

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