法の下に生きる人間〈第43日〉

国歌斉唱でなぜ起立をしなければいけないのかと、いかにも指示されるいわれはないのだと言わんばかりに抗議する人がいる。

はっきり言おう。その人は、何かをはき違えているのである。

学校現場に限らず、他の場所でも「起立」を求められる場面があることを知っているだろうか。

裁判所である。

裁判所では、傍聴人も裁判官同様に、裁判官が入廷したら起立をして、一堂に会した全員が礼をする。

これは、判決を行う裁判官に対して礼をするのではなく、「裁判」という重要な審理をこれから行うことや「法廷」という場に対して、居合わせた全員が厳粛な気持ちで臨むのだという「態度」を示しているのである。

野球選手が、試合終了後に球場に一礼するのは、テレビでも見た人はいるだろう。

学校の教室だって同じである。

先生は、子どもに対して、自分に礼をさせるのではない。

「教室」という学びの場で、これから授業に臨む(カリキュラムに縛られた授業であれば、先生も子どもも一生に一度きりの授業である)という決意をともに共有する意味で、クラス全体が一体となるための「礼」なのである。

入学式や卒業式となると、子どもを持つ親なら身に沁みて実感できると思うが、自分にとっても子どもにとっても、人生の一大イベントである。

紅白幕に彩られた会場の中で、式が厳粛に執り行われ、大人はこれから日本の将来を担う子どもに対して入学後の学びや成長を期待し、あるいは、卒業後の社会人としての活躍を期待する。

子どもは、自分たちが日本の将来を担うのだという自覚の芽生えのきっかけとして、国旗の日の丸を見て、国歌を斉唱する。ともに斉唱した同級生や仲間は、もしかしたら仕事を一緒にすることになるかもしれない。

天皇陛下に対して礼をするのではないということが、裁判所や野球場の例でもお分かりだろう。

日本国憲法第1条には、天皇は「国の象徴」であり、「国民統合の象徴」であると定められている。

【第一条】
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

日本国民として、ともに入学あるいは卒業する仲間とともに、日本の将来を担います。そして、育ててくれた先生や親への恩返しとして、社会の一員になったらば、今度は自分たちが最期まで守ります。

そんな決意ができるのは本当に貴重な機会なのだが、それでも起立をしない理由はあるだろうか。

裁判の傍聴は自由だが、傍聴に参加するなら、場を乱さないよう一致した行動を取るのは当たり前である。

起立しないなら、退場すべきなのである。


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