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将棋は殺し合い? 「戦いベース」のサングラスをかけた私達

ロッシーです。

将棋が好きなので将棋ウォーズというアプリで遊んでいます。

以前、将棋ウォーズについて記事を書きました。

さて、「将棋というゲームは殺し合いなのか?」について考えてみようと思います。

物理的に考えれば、将棋で実際に人が死ぬことはないので、殺し合いではありません。

ただ、「比喩的な意味合いで殺し合い」という捉え方はできそうです。互いに相手を攻めて、最終的には玉を詰ますことがゴールですから、そうかもしれません。

しかし、金、銀、桂、香という駒の名前を見るとわかりますが、これらは「資源」と捉えることもできるでしょう(じゃあ、飛車とか角はなんなの?というツッコミはスルーします)。

桂はシナモンで、香はスパイスなんていう説もあるようです。金、銀はいわずもがなでしょう。そして、玉は「宝玉」でしょうね。(じゃあ、王はどうなるんだ?というツッコミもスルーします)

つまり、将棋を殺し合いと捉えるのではなく、資源の交換ゲームと捉えることもできると思います。より経済的価値の高い駒と交換することで、自分を有利にして、最終的に宝玉を手に入れるゲームというわけです。

私自身は、後者の捉え方のほうが好みです。

殺し合いというのであれば、チェスのほうが当てはまるでしょう。取った駒はもう使えない(死んでいる)わけですから。

しかし、将棋の場合は、駒は自分と相手方とを行ったり来たりするものであり、使えなくなることはありません。

それに、玉を「詰ます」ことはあっても、殺すわけではありません。やはりその意味でも殺し合いではないように思います。

「いやいや、取った駒は、捕虜として使っているんだよ。」

という意見もあるでしょうが、相手方についたり自分側についたり、そんなにコロコロ裏切る輩ばかりで殺し合いをしているのも、ちょっと無理があるように思います。


といろいろ書きましたが、最終的にはどっちでもいいと思います(オイッ!)。個人の好きに捉えればよいと思うのです。

ただ、大事なのは

「そのような捉えかたをすることで、メリットがあるのか?」

という観点です。ちょっとそれについて書きたいと思います。


よく「人生は戦いだ!」という言説がありますよね。それと同じように、あらゆる事象について、戦いベースで捉えることは結構多いです。

受験戦争、出世競争、経済戦争などなど・・・探せば沢山見つかるでしょう。

私たちは、どうやら戦いベースで物事を捉える「目に見えないサングラス」をかけさせられているようなものなのかもしれません。

そのサングラスから見れば、あらゆる事から戦う要素を見出すことになるでしょう。

例えば、将棋は殺し合いだし、学校はよい成績を取る場所、会社はお互いに出世を争うところ、結婚はお互いのテリトリーをより多く取り合う関係、になるのかもしれません。

しかしそうなるのも無理はないでしょう。私たちは小さい頃から戦うことばかりに触れさせられます。少年ジャンプを読めば、主人公は強い奴と戦ってばかり。アニメを見れば、誰か(何か)と戦ってばかり。

ドラゴンボール、幽遊白書、ダイの大冒険、ワンピース、鬼滅の刃・・・話が進むにつれて、戦いばかりになるのがオチです。

※そういう要素がないサザエさん、ちびまる子、ドラえもんのようなアニメのほうが稀です。ただ、こういうアニメのほうが長い時を経て愛されているのですけど。

もちろん、戦いを否定するわけではありません。戦わないといけないときは当然あります。

ただ、なんでもかんでも戦いベースで捉えると、あまりハッピーにはならないように思うのです。戦うということは、敵を作るわけですからね。

戦うことよりも大事なことは、協力です。「人類の歴史は戦いの歴史だ!」という人もいるでしょうけれど、いま私たちが享受している生活、環境、テクノロジーなどは、人々が協力するからこそ生み出されたものです。

そういう風に考えると、私たちは常態として戦いベースで物事をとらえる傾向があるわけですから、なるべく意図的に戦いにフォーカスしすぎないほうがいいんじゃないでしょうか。

そんな風に思います。

さて、将棋に話を戻します。

藤井聡太八冠のような棋士は、相手を打ち負かそうとして対局していないと思います。かといって、自分との戦いだ!と鼓舞しているわけでもないと思います。

おそらく、自分も相手も関係なく、ただひたすらに盤面に集中しているのではないでしょうか。

戦っているのだけれど、戦っていることを忘れている人。

そういう人が一番強いのかなと思いました。


最後までお読みいただきありがとうございます。

Thank you for reading!

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