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主張とポジション。

#検察庁法改正案に抗議します

という、ハッシュタグがTwitterで広がっている。

たくさんのインフルエンサーも、このハッシュタグで発信しているようだ。


今回は、この内容について、具体的に言及するのは控えて、

主張とポジションという大きなテーマについて考察してみたいと思う。


人間は、生物である。


これは、主張でもなんでもない。

ただの『事実』である。(この世は仮想現実...というような意見は切り捨てます)

私たち自身の存在が、その根拠となる。


では、これはどうだろう。


人間の本性は、基本的に善である。


こうなると、話は変わってくる。

これを事実ということは難しい。

なぜなら、善という言葉自体、主観的なものであるし、

どういったことを根拠にするかで、この文言は大きく変化してくる。

つまりは、これは『主張』だと言えるだろう。


我々は、主張や考えを、事実のようにとらえてしまうと、それ以上は何も想像を広げることが出来ない。

こうなんだ、と受け入れてしまって、そこで終了。

それを理解しようとするならば、思考することが肝要である。

例えば、文章の中の一文であれば、前後の文脈があって初めて、筆者の考えを理解できるだろう。


しかしながら、文章のように、情報が極端に狭い場合なら良いが、実際に社会で立ち上がっている主張は、そう簡単にはいかない。

一つの事実をどう考えるか、と言った時に、そう考えるに至った根拠は、付随するたくさんの情報の中の、ほんの一部分である。

全てを知ることはできないし、知ったとしても、それを理解することは難しい。

当たり前だ。


だから、当然主張というのは、全ての情報を統合されて出てきたものでもないし、必ずしも最適解だというわけではない。

そんなものは、存在しえない。

主張している人にとっては、最適解かもしれないが。


だから、他者の主張というのは、自分の思考のスイッチととらえるべきだ。


他人の主張に振り回されて、良いことなど一つもない。

それは、きちんとした根拠があるようで、ないからである。

だから、受容するのではなくて、主張の根拠を追う。

そいつが、一体何を考えたかを追う。

そして、さらに調べていく。

すると、自分の中に考えが立ち上がる。

主張が体を持つ。

まずは、このプロセスが大切なんだと思う。


最近、Twitterやその他掲示板で、特に政治のテーマで、活発に議論がされているように思う。

しかしながら、ネトウヨや左翼といわれているような人々は、ポジショントークのために、自分たちに都合のいい文脈を持ち出しているように、私は思えてならない。

それに加えて、対立する意見に対しては、ありったけの力で攻撃し、自分の主張を誇示する。

そんな人も、時に見かけたりもする。


ただ、私は思う。


もっと柔軟でいいんじゃないか。


それに、自分の意見は、全てじゃない。


たぶん、世の中の全ての人が違うことを主張したって、無限に広がる思考のキャンパスは埋まらない。

間違ったなら、間違ったことを素直に認めて、自分の考えをアップデートすればいい。

そうやって、自分が理解できる考えを、お互いに広げていくことこそが大切なのだと思う。

だからこそ、ポジションにこだわる必要はない。

成長しない議論に、何も意味はない。

私はそう思う。


今回のハッシュタグで、私はいろいろなことを考えるきっかけをもらった。

流れを見ていくと、何が正しいかではなく、どこを落としどころにするか、ということが、社会においては重要視されているのかなとも思った。

うん、すごく難しい。

でも、考えることはすごく楽しい。


長くなりましたが、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

それでは。




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