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#1-4 8つの問いは社会集団にも使えるのか等 【MAWARUリフレクション:山辺先生#4】

みなさんこんにちは。リフレクションメソッドラボラトリー事務局です。リフレクションメソッドラボラトリー(以下RML)では「MAWARUリフレクション」というプロジェクトを行っています。

MAWARUリフレクションは、「リフレクションによる個人の気づきが周囲に循環し、社会を変える」をテーマに、教育にリフレクションを取り入れる活動を2016年から続けているプロジェクトです。(プロジェクトHPがありますのでぜひご覧ください。)

この記事では、前回の記事に引き続き、山辺先生をお迎えした第一回イベントの、ディスカッションパート3をご紹介します。

イベントの様子をPodcastでもお届けしています。今回の記事に対応するPodcastはこちらですので、合わせてご参考ください。

なお、前回の記事はこちらからご覧ください。

ディスカッションパート3

それでは、早速ディスカッションパートに入っていきましょう。今回はコルトハーヘン先生の「コアリフレクション」についての質問からです。

以下、質問者をA、Bなどのアルファベットで、山辺先生を「山辺」と記載して会話形式でご紹介します。
※一部発言には、編集にてわかりやすいように追加修正しております

質問とディスカッション:8つの問い、リフレクションの対象

私は教員養成大学でキャリアデザインの中でリフレクションをどう組み込むか、リフレクションの具体的な手順を学生にも理解してもらいたい、と考えています。コルトハーヘン先生のALACTモデルの第二局面で「8つの問い」の枠組みで考えることが有効だとありました。これは、相手はどう考えるか、生徒はどう考えるかということかと思いますが、相手はある一人の対象でないとうまくいかない枠組みなのでしょうか。例えばキャリアデザインとかを考えた時には、「特定の人」が相手というだけでなく、「社会」とか「組織」とか、一人じゃないものを相手として、リフレクションができるような気もしました。一方で、リフレクションを具体的にしたほうが良いというのも聞いているので、そこはあくまで対人関係のリフレクションに落とし込む方が良いのだろうかとも思いますが、ご意見を聞いてみたいと思います。


省察の理想的なプロセスを説明するALACTモデル
―コルトハーヘン(2001/2010)教師教育学」学文社 より引用―


8つの問い


山辺:先ほどの例でいえば、まず先生は学級を1つの集団として、8つの問いに答える、ということはあります。ただ、子どもたち1人1人に8つの問いをするのと、学級だと複数人の子どもがいるわけで、視点の数が増えるだけ8つの問いにずれが生じてきます。そのずれは、対象を広げていけばいくほど大きくなるわけであって、答え合わせのしようがなくなるというのが、難しさかなと思います。
コルトハーヘン先生のコア・リフレクションというのは、個人にどんどん目を向けていくのですが、一方でリフレクションの流れでもう一つ大きな、クリティカルリフレクションという分野があります。それは社会構造を批判する目を養うためのリフレクションなのですが、コルトハーヘン先生のリフレクション研究にはそういう社会構造を見る視点が欠けているという批判もあって、今は(コルトハーヘン先生が)そこに注力して研究をされていますし、社会構造をリフレクションする可能性というのはあるのだろうと思います。企業を相手にリフレクションだったら、それなりにできるかなと思いますが、難しい側面もありそうですね。顧客のニーズとか、業界のニーズということであれば、全体像までは把握できなくても、1回ぼんやりとした、広い集団を想定して、8つの問いを埋めた後に、ある程度答え合わせでインタビューしていくとか、ずれを認識していくような作業が必要かなと思います。

中島:なるほど。ちょっと話は逸れるのですが、お話伺いながら「リフレクションと思考って何が違うんだろう?」と考えていました。リフレクションって、経験から起きたことを振り返って解釈していくことかなと思っていたのですが、色々考えていると、リフレクションをしているつもりが、単に思考を深めているだけなのでは?と思うこともあります。リフレクションと思考って何が違うんでしょうね。

山辺:確かに、リフレクションにも色々な定義があります(スライドを提示)。例えば古典的なところに戻ると、ジョン・デューイという教育学者は、石ころを例に、石ころを手に取って360度回して、その石ころの特徴を一つも見落とさないように回してみることがリフレクションだ、と言うんですね。このスライドだとペンに変えているんですけれど、ペンをぐるぐる回してみるのがリフレクションで、それは熟慮的思考だというんですね。で、思考の中でも一番深いものがリフレクションです。
コルトハーヘン先生や最近の人たちが指摘しているのは、どんなにぐるぐるペンを回してみたところで、見ているのが自分の目であることには変わりない。自分の目で見ている以上、そこのバイアスがかかっていることを自覚しなければならないというので、コルトハーヘン先生は、自分の目を吟味するのがリフレクションだと。だから、ゲシュタルトとかっていうことを言い始めるんですよね。
なので、やっぱりリフレクションである以上は、さっき言った通り、8つの問いの右側(相手は~)の検証、自分の目にどれだけのずれがあるか、というのを検証する必要があるのかなと思います。

E:どうもありがとうございました。今コメントいただいた中で、「あっ」という風にアイデアをいただいたフレーズがあります。それは「ずれを認識する」というところ。やっぱり、答え合わせができるというのが良いんだと。そうすると、結果的に対象が個人である方が、答え合わせができる。目標というか目指すところは、ずれを認識することなんだというのであれば、そこができれば何かやりようはあるという、そういうメッセージだという風にお受けしました。ありがとうございました。

中島:そのずれというのは、例えば相手がこう言ったというのが、相手が口で言っていることと、本当に思っていることが違ったりすることもある。あるいは、相手も本当にそうだと思っているけれど、色んな行動ベースで見ていくと、やっぱり違うところがあって、そこを深堀りしていくと、相手もやっぱり違うことを思っていたということもある。要は、人が言うことって、本当に正しいかどうかわからない。それ即ち「ずれ」そのものが正しいかどうかわからなくなり、「ずれ」に意味がなくなるんじゃないか?とも思ったりするわけですけど、そのあたりはどうお考えでしょうか?

山辺:そのための8つの問いだと思っています。やっぱり、思うことと行動がずれてしまうのって、わざとじゃなくても人にはよくあることで。そこを埋めていくと、ずれが解消しやすくなるかなと思います。ただ確かに、8つの問いに正直に答えないとうまくいかないので、そこはやはり信頼関係が必要かなとは思います。

リフレクションとリアリティショック

B:今の話を聞いていて思ったのですが、リフレクションをするようになった根幹である、リアリティ・ショックをもう少しちゃんと見つめないと、リフレクションは上手く機能しないんだろうなと思いました。例えば、本人から見たらショックだと思っていたけど、他者から見たら全然ショックではないということもあるだろうし。リフレクションをする前の、リアリティ・ショックの原因の捉え方ですね。僕は学校とか、色々な機関を回った中で思うのは、リアリティ・ショックの掴みどころが、そもそも違うんじゃないか。そもそも、リアリティ・ショックって何?ということが、実はあまり着目されていないことが、ふわっとしたリフレクションにつながっているんじゃないかなと思うのですが、山辺先生いかがでしょうか。

山辺:ありがとうございます。確かにリアリティ・ショックを解消したい、あるいは解消まではできなくても、リアリティ・ショックを乗り越えられる人になってほしいというのが、コルトハーヘン先生の一番コアな思いとしてあるのかなと思っています。大学の授業や高校の授業を、5段階の手順によって変えていったというのも、まずそこでリアリティ・ショックというか、リアリティ・ギャップを少しずつ狭める。大学とか高校で教わる専門的な事と、実際の社会の中で使うギャップを狭めるために、5段階の手順というのを考えていたけれど、そのギャップは小さくはできても、なくなりはしないというので、(コルトハーヘン先生は)リフレクション研究に行ったのかなと思っています。
リフレクション研究をしていると、ずれを認識するという経験をどんどん蓄積していくわけですよね。ずれがあった時に、自分はそれを乗り越えられるという経験が蓄積されると、ずれが怖くなくなるのかな、というのがまず1点。そして、コア・リフレクションというのは、あまりにずれが大きかった時に、自分は何の役にも立たないんだっていう風に思って、1回で砕けてしまう若者をなくすために、最後の最後で自分にはこれだけの強みがある、みたいなものを持たせておく、というのが大事だと思ったのかなと解釈しました。

現場には緩衝材が必要なのではないか

B:それを踏まえたときに、僕はそもそも、現実と学校で習ってることの違い、ギャップを埋めようとする発想が違うのではないかと思っています。現実と、学校で学んできたことがぶつからないように、緩衝材、クッションを組織として作っていかなければならない。このことを、僕はリフレクションに含めないといけない要因じゃないかと思っているんですよ。例えば、ずれを認めるとか、ずれがあることに気づくというんだけれど、ずれがあったらいけないという日本の国の同調圧力の中で、いやずれているじゃないか、と言われるような組織ではなくて、そのずれをきちんとアクセプトできるような組織づくりをしていかないといけないんじゃないかと思うんです。
例えばこれが、欧州の文脈でセルフがかなり認められている教育文脈の中だったら、このスタイルはすごい機能すると思うのですが、日本の非常にずれを認めにくい社会文脈の中ではなかなか作用しない。そういう前提であれば、ぶつかったときに壊れないようなクッションを組織として作っていくのが大事なんだなっていうのを、去年今年と初任者を学校に引き受けた中学の校長としては思いますね。組織としての緩衝材をちゃんと作り、それをマインドセットとしてみんなが持つというのが、僕は大事だと思います。いかがでしょうか。

山辺:それは大事だと思います。例えば、若手の先生が一人でずれが怖くなくなって、現場に入っていったからとして、周りもそれを決して理解してくれるわけではないと思うので。ずれを話し合えるような組織作りというんでしょうか。そういうのも大事なのかなと思います。

B:つまり、コミュニティプラクティスをどう作っていくか。リフレクションをすることが大事というよりは、雰囲気を作っていく、そのためのツールとしてそれぞれのリフレクションを活かしていこう、という風に考えるのが、僕はあるべき姿かなと思っています。

D:私も高校に研修に行ったときに、授業設計をネタにして研修をしますけれど、教頭先生が、「こんなに教科を超えて話をしているところを初めて見ました」っておっしゃるわけですね。つまり、(学校が)安全安心な場になっていない。アクティブラーニングの導入期、探究学習の導入期に、研修が目的ではなくて、実は一緒にその学校の目的や授業の目的、どんな手立てを介して生徒子どもたちにこうなってほしい、という話を共有する場がそもそもなかった。私は、教頭先生や校長先生の、自分の役割に気づくきっかけが一番大事だったんじゃないかなと思ったんですね。
今の緩衝材の役割は、実は教頭先生や校長先生の役割、またはそれを支える教師教育者(大学の場合は教育開発者)が、圧倒的に足りないですね。日本では、大学の現任教員を研修する専門家はたぶん30人もいないですが、アメリカは1400人の協会があります。大学の中でも、アメリカと比べたら100倍違う。そういう規模の違いはあると思うので、本当にリソースが社会として足りないという実感は、私は思っています。この辺りはいかがでしょうか。山辺先生に、教師教育者をたくさん育ててほしいという要望、メッセージでもあります。

山辺:そうですね、(緩衝材は)必要ですよね。ただ、これは本当に構造的なことなんでしょうか、大学の教員で教員養成に携わっている人で、教師教育者という自覚のある人がどれくらいいるのか、ちょっと悲観視してしまう感じです。「自分はむしろ教科教育の専門だ」とか、狭いところに閉じこもってしまうところがあるので、広く「自分がやっていることは教師教育なんだ」という認識を広げていく必要はあるなと思ってます。

B:今の話だと、学校現場には実は気づかないんだけれど、緩衝材の具材はいっぱい転がっていて、それに気づくことが大事だと僕は思います。例えば授業研究っていう文化が日本にはある。その授業研究という文化を使って、それを教科だけに特化せず、コミュニティ作りに使っていきましょうというのは、僕は大事だと思う。今、大阪府の中学校英語教育研究会というのがあるんですけれど、私学公立問わず、会員数200人いるんですよ。そういう組織として、緩衝材として、コミュニティを作っていこうとやっているんですけれど、今あるリソースをうまく活用していくことが優先かなと思います。皆さんいかがでしょうか。

A:お話を聞いていて、(学校現場に)緩衝材というものがあまりにも少なすぎて、本当に職員室が個人事業主の集まりみたいな感じになることってあるかな、という風に思うんですね。あとは、例えば新しく教員になった時に、自分が大きくショックを受けているにも関わらず、気づかないこともあると思うんですよね。そういうものかなっていう風に受け入れていくっていう土壌もあるのかもしれないですけど、何かのコミュニティがあった時に、本人がコミュニティに参加する余地もなかったりする。自分自身がストレスフルな状態に気づけなかったりした時に、緩衝材プラス、周りが気づけるような環境があるものかなと。そこのあたりは課題意識として持っています。

B:例えば、(僕は)学校の管理職として初任者を迎え入れる立場なんですけど、うちの学校には毎週1回初任研があるんですよ。時間割に組み込まれているんで、空き時間に初任者が集まって研修を受けるんですけど、それは職員室の真ん中にスペースがあるんですよ。どっかの会議室じゃなくて、職員室の真ん中で初任者が、例えば授業づくりどうするんだとか、子どもとのメンタリングしていくときにどうすればいいか、っていうことをやっているんです。当然、通りがかりの先生はみんなもう、声かけていきますよね。こうやって、職員室の真ん中で話をします。初任研を毎週やるのに日にち設定するのが難しければ、時間割に組み込んでいく。年間35週あるから、初任研が35回あるんですよ、こういうのを1個ずつ丁寧にやっていくっていうことが僕は大事なのかなと思っています。
この写真(画面共有:職員室の真ん中にスペース)は、4月の1番最初の職員会議での生徒会からの提案なんですよ。職員会議に生徒会が入って、自分たちのしたいことをちゃんという。それを教師が全員聞いている。いや、それはおかしいだろっていうのも、フィフティー・フィフティで議論していく学校なんです。それがもともとある学校の文脈の強さだから、それを活かしたコミュニティを作っていこうという。僕が校長になってから、一番初めに作ったのがこのスペースなんですよ。そんな形で、気づきを共有していくっていうことを、管理職と言われる方がやっていくというべきなんだろうなと思うんですけれどね。

A:そうですね、今のお話の中で、時間割に組み込まれているというところもすごく素敵だなという風に思いましたし、何よりも他の先生が普通に声かけをするっておっしゃってましたけど、声かけをするという文化というか空気があるということが、先ほどの安心安全というところともつながるかなと思って、すごくシンプルな話ですけれど、そこの部分が良いなと思いました。ありがとうございます。

まとめ

以上、ディスカッション編の様子をお届けしました。リフレクションは個人を対象とするのか、それとも社会や企業などをも対象にできるのか?等、皆が気になる視点が盛り沢山だったのではと思います。

山辺先生のイベントの記事は本記事で最後になります。コルトハーヘンのリフレクションを中心に、様々な視点からリフレクションに関する考察ができたと思います。特に山辺先生の話は的確で、リフレクションを実践者で語り合う上でとても示唆に満ちたものでした。
イベントに参加していただいた皆様、そしてお忙しい時間を縫ってゲストとしてお話いただいた山辺先生、この度は本当にありがとうございました。

次回、第2回のイベントでは、東北福祉大学教育学部教授、上條晴夫先生にお話いただく予定です。記事もまたアップしていきますので、ぜひ楽しみにお待ちください。(イベントの参加申し込みをこちらで受け付けています!

【山辺先生イベントの記事】
#1 -1 コルトハーヘンのリフレクション(スライド発表)
#1-2 質疑応答とディスカッション(1)
#1-3 質疑応答とディスカッション(2)
#1-4 質疑応答とディスカッション(3)(本記事)

MAWARUリフレクションメンバー
(執筆:生井、一部編集:中島)


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