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ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』を読むために

1. ベルクソンについて アンリ・ベルクソン(1859~1941)は19世紀末から20世紀半ばにかけて活躍したフランスの哲学者である。実証科学が台頭したこの時代において、彼は心理学や生物学などに深くコミットしつつ、実証科学には回収され得ない非物質的なものについての研究を行った。 2. ベルクソンのキー概念①純粋持続(durée pure)(『意識に直接与えられたものについての試論』(1889)) 〇質から量へ  ベルクソンは彼の最初の著作において、本来質的なもので

    • 名探偵コナンというヒーロー(僕の読書遍歴2)

       僕が本を読むことが好きなのは、自分の読み聞かせがうまかったからだと、母は言う。このことがどれほど僕の読書人生に影響を及ぼしたのかは分からない。けれども、幼少期の経験がその後の人生にしばしば重大な影響をもたらすことを考えればありそうなことだ。とにかく、僕は小学校に入学するころには自ら進んで本を読むようになっていたことは事実である。  僕が本を読んでいた理由として、はっきりと一つ言えることがある。僕は知性にあこがれていたのだ。僕にとってのヒーローは、仮面ライダーでも戦隊ヒーロー

      • 僕ってなに?(僕の読書遍歴1)

         ふと、僕の読書遍歴を振り返ってみようという気になった。普段からたまにSNSなんかで、あのころは何を読んでいて、というようなことを断片的に追憶してみることはしていた。そういうことを考えるのは、たいてい僕がどういう人間であるのか、つまりは僕がどんなことに関心を寄せて来て、どんなものに影響を受けたのか、ということが分からなくなったときであったように思う。僕は自分が何が好きなのか分からない、とまで言ったら言い過ぎかもしれないが、これまで「あなたは何が好きですか?」という質問を投げか

        • 人生敗北主義者宣言

           昔ブルーハーツは「あれもほしい、これもほしい、もっとほしい」と歌った。貪欲で前向きな情動。共感できなくはない。他方で、常識的な人間なら、こう言うだろう「どれを選ぶか決断しろ」二兎追うものはなんとやらと言う通り、この反論もごもっともである。人生の大事なときには決断を必要とする。いいとこどりというわけにはいかないときもある。  けれども、僕らはそのどちらも退けて、こう言いたい。「あれも違う! これも違う! 全部全部違う!」僕らはどんなものにも満足しない駄々っ子である。色んなこと

        ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』を読むために

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        記事

          外山合宿とは何か 第30回教養強化合宿体験レポート

          はじめに  外山恒一氏の開催する教養強化合宿、通称外山合宿の第30回に僕は参加した。30回というのは並大抵な数ではない。1回の参加者を10~15人とすると400人程度が参加したことになる。しかも、今この文章を書いているあいだにも第31回合宿が開催されているらしく、今後も合宿出身者は増え続けていくだろう。なぜこれだけの若者が外山合宿に集まるのか。また外山合宿とはどのような役割を果たしているのか。合宿に参加したうちのひとりとして、こうした問いについて考えてみようと思う。 学

          外山合宿とは何か 第30回教養強化合宿体験レポート

          読書の仕方について

          2023年7月27日 11時頃  読書の仕方というのはいろいろあるだろうが、おおむね精読と速読の二種類に分けることができると思う。精読というのは一文一文理解しながら読む読み方であり、速読というのは情報をスキャニングするようにして要点だけさらえる読み方だ。実際の読書においてはこの二種類の読み方を組み合わせることになる。つまり、じっくり精読しようと思っても、ある程度読み飛ばす部分はあるだろうし、反対に速読しているときに目に留まった箇所をあとから読み返すということをしたりもする。

          読書の仕方について

          ゆるやかな自殺とその敵

          2023年7月27日  ストラテラというADHD治療薬を僕は飲んでいる。薬を飲んでまで社会に適応しようというつもりもないのだが、本を読むのに十分なだけの集中力すら、薬を頼らなければ得ることができないのだから仕方がない。文章を書くくらいしかできない僕にとっては、本が読めないのは致命傷なのだ。  けれども、この薬はなかなか胃に負担の大きい薬らしく、飲み方を間違えるとひどい目に合う。僕の場合もともと胃が弱いというのもあるのだあろうが、食後ほんの30分でも時間をあけてしまうと、激し

          ゆるやかな自殺とその敵

          小説の好き嫌いについて

           その作品の出来不出来にかかわらず、小説について個人的な好みによる評価というものがあることは疑いえない。サリンジャーは『キャッチャーインザライ』のなかで主人公に、その人にとってよい小説というのは、作者と友達になりたいと思うかどうかだと語らせていた。ウェルベックも『服従』のなかで似たようなことを述べていたように思う。  僕がその作者と友人になりたいと思った小説とはなんだったかと考えてみると、それは難しい問いである。けれど反対に、友人になりたくないと考えた小説や作家というのは、わ

          小説の好き嫌いについて

          日記を書くということについて(2023年7月26日)

           18時頃。数時間前に起きたばかりであり、日記もクソもない。初日であるから、日記を書くということについて、ごく個人的なことを書いておこうと思う。  日記というのは、その日自分が行った行為や考えたことについて書き留めておくものだろうと思う。けれども、それは僕にとって困難なことだ。  まず、最初の困難は日記というのはフィクションではいけないということだ。たとえば、僕は小説を書いたりすることもあるし、私小説に近いものを書くこともある。私小説というのはどのように書くかというと、な

          日記を書くということについて(2023年7月26日)

          「大正生命主義」から考える生命論

          この文章は京都大学哲学研究会における提起に用いたレジュメの全文です。私の意見や思想を論じる論文や批評とは異なり、私の関心に基づいた要約といった主旨で書かれています。 はじめに 今回の提起において取り上げるのは、「大正生命主義」と呼ばれる大正期前後の思潮にみられる「生命」の概念を重視する傾向についてである。近代化や工業化が進んだ明治大正期においては、自然や人間を機械論的にとらえる科学主義的な価値観が広まっていた。そうした状況において、スペンサー、ヘッケルらに代表される生物学や

          「大正生命主義」から考える生命論

          【小説】書を捨てよ、うんこをしよう3(第58回文藝賞2次予選通過作)

          第三章 金魚のフン  ◯  死んだはずの死体ちゃんのアカウントに投稿された新しいツイートを僕はずっと眺めていた。なぜ、死体ちゃんのアカウントが何年も経ってまた動き出したのか。何者かがアカウントを乗っ取ったのかもしれない。だけども、それならあんな個人的な書き込みじゃなくて、詐欺URLが張られたりとかそんなもっと怪しげなツイートをするだろう。乗っ取りだとするとあんなツイートをするメリットが分からない。  あるいは、僕らが心中しようとした場所でたまたま死体ちゃんと同い年の女とそ

          【小説】書を捨てよ、うんこをしよう3(第58回文藝賞2次予選通過作)

          深夜徘徊太郎

           午前四時頃の人気のない道を、「僕」が歩いていた。そいつは気怠そうにしながら酒を飲み、時折苛立ったように頭を掻いたりしている。その様子は、散歩というよりも徘徊に見えた。  午前四時というのは不思議な時間だ。ある人は夜中だと言うだろう。しかしまた、ある人は早朝だと思っているのである。どんなに日の出が早い日でも、まだ太陽なんて出て来ていないのに。夜中と朝との境界線はどこにあるのだろうか。色んな人が色んなことを言う。  僕は午前四時を真夜中だと思って歩いてるから、時々向こう側から走

          深夜徘徊太郎

          九鬼『「いき」の構造』

          九鬼周造『「いき」の構造』 「いき」のうちには、二者の性的関係でありながら、互いに完全に対象化しえないようなありかたが含まれている。エロティシズムにとってはこの不連続性は限界だが、いきにとってはここに美意識が働いている。(いきにおける所有の不可能であるとか不連続性と、心中の関係も気になる) 生命であること、ものであることを自在に行き来するような流動性の美? 弛緩と緊張。自由であること、物質的な存在であること。自由に振れすぎても「いき」じゃない。これらの間の傾向性を生きるこ

          九鬼『「いき」の構造』

          ベルクソン『二源泉』進歩?

          ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』、平山高次訳、岩波文庫、1977年。 p. 328-9 「これらの進歩は同じ方向のなかで生ずるのだろうか。それは進歩であることが是認された以上は、方向はもちろん同じだということになろう。その場合、進歩のそれぞれは、実際、一歩前進だと定義されるだろう。しかし、それはひとつの比喩でしかないだろう、そして、ひとつの方向が前もって実際に存在していて、ひとは単にそれに沿うて進みさえすればよかったとすれば、道徳的革新は予見しうるものだろうし、道徳的革新

          ベルクソン『二源泉』進歩?

          ソレル『暴力論』第五章

          ソレル『暴力論』、木下半治訳、岩波文庫、1933年 上巻p. 202 神話において重要なのはその全体だけ。それを用いる革命家が考えたことが完全に間違っていたとしても、社会主義の願望を完全に取り入れたものであるなら、それでよい。 →その人が何を語るかよりも、何をするか。言語や知性の使用において間違えていたとしても、その人の行動がちゃんと機能していればよい。ベルクソニスムの片鱗を感じる。(社会がなにを語るかではなく、何をしているか。『二源泉』)たしかに、言語の軽視といわれて

          ソレル『暴力論』第五章

          【読書ノート】ドゥルーズ「ベルクソンにおける差異の概念」——ベルクソンとヘーゲル

          ドゥルーズ「ベルクソンにおける差異の概念」(『ドゥルーズ・コレクション』、宇野邦一監修、河出書房、2015年。)  ドゥルーズはこの論文において、ベルクソンとヘーゲルの対決を試みようとしているように思われる。 (ベルクソン自身は著作の中でヘーゲルについて直接言及することはあまりない。dialectique を言語による解決としてよく批判するが、ヘーゲルというよりプラトン、アリストテレス批判である。『思考と動き』「序論Ⅱ」で物自体に何か名前を与えてわかったつもりになってるや

          【読書ノート】ドゥルーズ「ベルクソンにおける差異の概念」——ベルクソンとヘーゲル